難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

STU48 1st Single『暗闇』所感

 

奇しくも今春、関西から瀬戸内の地元へと戻ることとなったこの時期に、その瀬戸内を拠点とするSTU48の『暗闇』という楽曲に出会えたのは、なにかの縁を感じざるを得ない。

一聴してみたときは地味なようにも感じたが、これくらい穏やかなメロディが瀬戸内には合う。心地よく耳に馴染むまで、そう時間は必要なかった。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

室生犀星の有名な詩が、詩人にとっての「ふるさと」というものを詠ってくれている。『暗闇』の主人公は、「ふるさと捨てて僕は絶対暮らせないだろう」と言う。ぽつんと水平線を眺めながら、自らの理想と現実を分かつように「あの空とこの海が、ほら、分れているように 交わらないものがあるってことさ」なんて諦観の境地にいる。

 

太陽が描くR、これはRadius(半径)の頭文字であるらしい。このRに、ReturnやReset、Restartなんかを思い浮かべてしまう。「何かをやり残してるような悔いはないのか 僕はまだ帰りたくない」と続くので余計に。

 

詩人的性質を持つこの主人公は、まだ理想を追い続けて居たい、いや、理想が現実と溶け合う瞬間をまだ諦めきれていない。その瞬間とは、アルチュール・ランボオの言う永遠だろうか。

 

Elle est retrouvée.  また見附かつた、
Quoi? - L'Éternité.  何が、永遠が、
C'est la mer allée   海と溶け合ふ太陽が。
Avec le soleil.    (小林秀雄訳)

 

しかし、主人公の許にはあまりに現実が迫って来すぎた。「水平線見えてなければ 今いる場所が分らない」水平線とは水面と空の境界をなす線である。彼は悲しくもここを見つめ続けている。自分がどの位置にいるのか、いや、居なくてはならないのか、「ふるさと捨てて僕は絶対暮らせないだろう」には、そんな痛切な響きがある。

 

「都会で暮らす友は窓しか見ていないらしい」

都会、そして窓という語句からすぐにシャルル・ボードレール散文詩『窓 Les Fenêtres』を連想した。

 

開かれてゐる窓の中を外から眺める人は、決して、閉されてゐる窓を眺める人ほど多くのものを見ないのである。一本の蠟燭の照らしてゐる窓にもまして、奥深い、神秘な、豐かな、薄暗い、魅惑的なものがまたとあらうか。太陽の光の下で見ることの出來るものも、窓硝子の内側で起るものに比べると、常に興味が薄いのである。この暗い、或ひは明るい穴孔の中には、人生が生き、人生が夢み、また人生が滅んでゐる。(村上菊一郎訳)

 

窓の内側から眺める外の世界、想像の世界、それが現実かどうかなど構わない。「ただそれが私にとつて、生きてゆく助けとなり、私の存在してゐることや私の何ものであるかといふことを、感じさせてくれる助けとなりさへすれば」

そんな魅力的な暗闇から世界を眺める友人と、水平線を見詰める自分。ああ、夜よ、僕を詩人にするな。暗闇とは無限のことである。「欲しいものもいらないものも見境つかなくて 手を伸ばしてしまう若さ」である。見えるとはなんと悲しいことか、分別があるとはなんと詰まらないことか。

 

説得力のない都合のいい思いやり、虚しい取り繕いは、繋がりの強い田舎の人間に感じるものだ、とまで言うと恣意が過ぎるが、「防波堤の上に立って僕は叫んだ 波の音よりも大きく自分へと届くように」と聴くと、こんな解釈を強引に通してもいいような。

 

 

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