祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
『平家物語』の冒頭、誰もが知る名文である。学生時代に仕方なく覚えさせられた文章だが、試験が終わって久しくとも忘れ去ることなく、多くの人々がスラリと諳んじられる。
難解なことは語られていない。誰もがいつかは滅びる。まあそうだよな、という話なのだけど、それでハイ終わりとはならないのが人の心。
われわれ皆いつか滅ぶのだとしたら… 考え出すと果てしがない。だが、そんな果てなき思惟の旅に出て、初めて人は「生きる」ことを始めるんじゃないか。なんて思う。
『平家物語』がアニメ化された。その主題歌に、一聴してすぐ心を奪われた。
羊文学の『光るとき』
イントロの音色が、私の見慣れた瀬戸内の海そのものだった。穏やかな波に、キラキラ反射する日の光。親しくも畏るべき美しさ。
海は全てを見てきた。種が落ちるところから、「最終回のストーリー」まで。
平家の最終回は言わずもがな、壇ノ浦である。アニメを見る人たちも、誰もが最終回を知っている。この一族が滅び去ることを。
しかし『光るとき』は「最終回のストーリーは 初めから決まっていたとしても 今だけはここにあるよ」と歌う。歌声に照らされて、彼ら一人一人確かに生きた「今」が光り輝く。そうだ、君はただ物語の進むまま滅ぶのみではない。「君のまま光ってゆけよ」
終盤で「永遠なんてないとしたら」と歌っているけれど、私は『平家物語』にもこの曲にも「永遠」を感じる。
過ぎ去るのは、栄耀栄華や「この最悪な時代」のような「永遠に見えるもの」だ。
「最終回のその後も 誰かが君と生きた記憶を語り継ぐ」ということ。これは永遠に巡り巡るだろう。無常の現世を超える、文学・芸術の世界。
平家の公達たちは、自分たちが滅びることを予感していた。平忠度が都を落ちる際に、わざわざ引き返して和歌を藤原俊成に託した話など読むに、そう思えてならない。笛の名手である敦盛、舞に長けた維盛。みな風雅の世界に永遠を見たのだろうか。現し世での運命を受け入れて。
話が『平家物語』に寄りすぎてしまったが、『光るとき』は別にこの古典を知らなくても、存分に感じ入れる曲である。生まれて、いつか死ぬ人たちなら誰でも。
この曲を知る少し前、私のユルい人生の中でも、なかなかに重い出来事が起こった。しかも、こういうのは立て続けに起こるようである。気分が鬱いだ。不安が襲った。すべてが真っ暗に見えた。
そんな時に、この曲と出会った。
「何回だって言うよ、世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ」
毎日毎日、繰り返し聴いた。歌詞を覚えて口ずさんだ。とても心強かった。
「悲しみに向かう夜も、揺るがずに光っていてよ」