春の国立新美術館以来のビュールレ・コレクション。
9月17日は祝日の月曜で、昼12時ごろだったか、名古屋市美術館に着いたときには、入場に長蛇の列。致し方なし。
入場してすぐ目に入る右の壁、ファンタン・ラトゥールの《パレットを持つ自画像》が、群がる鑑賞者を見下ろす。ロマン主義的な光を受けながら、画家の象徴であるパレットを持ち、絵筆を握る姿は、思わず息をのむ程に威風堂々としている。
絵の中の彼が描いて(見つめて)いるのはこの自画像、つまり自分自身だろうが、作品として完成し飾られることによって、絵の中の彼は鑑賞者を見つめ、描き出す。厳しい内省を繰り返すことによって、人間普遍のものに辿り着く、これはボードレールが生涯取り組み続けた芸術の方法ではないか。
絵の中の彼は、突き詰めた自己の裡に、われわれを見る。凝然と見つめる。第一展示室の入口から、そんな緊張感が漂っていた。
国立新美では、入ってすぐ目に入るのはフランス・ハルスの《男の肖像》であった。時代の先駆たるこの作品から、アングルの端正な《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》に目を移し、未完の《アングル夫人の肖像》の荒い筆致を見せ、後の印象派周辺の画家たちに繋げていく。
名古屋市美だと、フランス・ハルスはルノワール《アルフレッド・シスレーの肖像》と並べて展示されていた。あれにはどんな意図があったのだろう。
初めの展示室ですっかり疲れてしまった。途中ドラクロワで足を止めるも、後は遠くからさらっと見るのみ。ドガとルノワールの展示室を過ぎたあたりから、混雑が落ち着いてくる。
セザンヌはゆっくり観られた。
初期の暗く官能的な絵から揃えているのは、コレクターの画家への熱が感じられる。
肖像画を観ていくと《セザンヌ夫人の肖像》から《赤いチョッキの少年》ときて《庭師ヴァリエ》に至り、人物と風景が一体となってゆく。アンブロワーズ・ヴォラールの肖像画を描いているとき、たまらず身動きしたこの画商にセザンヌが放った「動いちゃいけない。林檎が動くか!」の言葉が思い出された。
セザンヌは観るたびに刺激をもらえる。完璧を求めて苦しみながらも、妥協を許さず、試行錯誤を重ね、険しき我が道を突き進む。芸術とは何か、創造とは何か。そんなことをこの画家からは強く感じる。
創造の苦しみ… どうしてもゾラの『制作』が浮かぶ。ただ、セザンヌはクロード・ランティエより頑なだった。ランティエの屍を越えたからこそ、そうあれたのかも知れない。
イレーヌに人が集まってゆっくりと再会を楽しめなかったのが残念ではあったが、やはり良いコレクションだなと思った。印象派を巡る前後の流れが摑め、見比べられる。私みたいな美術初心者には最適だった。
2020年にはチューリヒ美術館に全て移管されるので、纏めて観られるのは最後の機会。まだの方はぜひ。祝日は避けて。