難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

メメタァ

疲れとか暑さとかで余裕なくなり始めてきたので、久しぶりに音読をやった。去年は日課にしていたのだが、なんかいつの間にかやらなくなってしまっていた。愛読している千野栄一『外国語上達法』を選んだ。やっぱ声に出して読むと良いね。何がってわからんけど、スッキリする感じはある。

 

昼ごはんを食べながら、『どうする家康』の「本能寺の変」の回を見た。幼き信長がスパルタの父親に「誰も信じるな」と育てられてきて、でも唯一信じるとするならば「こいつになら殺されてもいい、そう思う者」とか言われて、それが家康だったみたいな回想。いざその時が来たと思って迎え撃ってみれば、そこにいたのは明智。最後の最後まで信長は可哀想だったな。

 

寝る準備ができたところで、なぜかhuluで仰天ニュース見ちゃった。オウム真理教事件、これまで何回もやってたように思うし見たこともあるんだけど、やってたら見ちゃう。それぞれ角度が違うから見れるのもある。今日のやつは地下鉄サリン事件の顛末が、サリンを生成した男が入信してからの話を軸にまとめられていたからわかりやすかった。

こういうの見るたびに、頑固なのは良くないなと思う。頑固だったら、一見怪しい宗教なんかは信じなさそうなんだけど、不安につけこまれて信じちゃったら最後、頑固に信じ続けちゃう危険性がある。不安なとき、孤独なとき、道に迷っているとき、なんかよくわからん方にコロッと行ってしまうことあるってから。

だから、柔軟でなければと思う。「宗教?!興味ない!全然信じてないし知らなくていい!」みたいな態度を取らずに、「とりあえず知っとくか〜」って知識つけといて損はない。全面拒否でなくふんわり知っておくの大事。

 

鹿島春平太『誰もが聖書を読むために』を手に取る。終章「日本の若者はなぜ宗教に食われるか」から少し引用する。

 人間なぜ生きるのか、死後には霊界があるのか、それともないのか、などに対する理屈の体系をある程度豊かに持たないと、どうなるか。最近立て続けに起きた新興宗教事件はそれを克明に見せてくれています。

 マスコミでは、教祖に心酔し、その言うままに動く信者に、学歴の高い者が多いことを不思議がっていました。だが、こんなのは少しも不思議でない。学問知識というのは、科学で明らかにされた科学知識です。それは、経験界がどうなっているかの知識であって、霊とか死後の世界などへの説明をする形而上理論ではないのです。

 そして、結論から言えば、マスコミに登場した高学歴の壮青年者たちは、科学的には、大学出、大学院出だったとしても、形而上学的には幼稚園児のような状態だったのです。これは、彼らだけに限ったものではありません。現代日本の若者、実はさらには、日本人一般に共通した慢性病のようなものです。

 

形而上学的な知識や論も豊かにしていこうな。形而上学って、出てくるたびに「つまり…どういうことだってばよ?」ってなって調べて、まあ物質的でなくて抽象的な存在についてとかそういうの考えるやつね、みたいにふんわり諒解するんだけど、また次出てきたときには忘れてて調べちゃいがち。metaphysics だからメタなこと考えるやつ!とかで覚えたほうが良さそう。