難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

3/30 木島櫻谷 近代動物画の冒険 泉屋博古館分館

 

六本木一丁目駅から、泉屋博古館分館までは、階段を上がってすぐだった。途中の桜を見ながら、いい景色だなと歩いていく。座って桜を眺めている人もちらほら。ストロング缶握りしめて独り座しているお姉さんも。複雑な季節なのである。

 

 

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明治後半から大正期にかけて、文展の花形として活躍した、木島櫻谷(このしまおうこく)が描いた「動物」に着目した展覧会。

ついこないだ櫻谷を知り、京都の展覧会に間に合わず悔しい思いをしていたので、ようやく東京に来られて嬉々たる思い。

 

鷲や獅子、鹿に猫に狸… 猛獣から身近なものまで様々な動物を描いた櫻谷。

圓山・四条派の伝統だという「毛描き」や、《奔馬図》に見られるような、墨を使い分け輪郭線を用いず筆の側面で形づくる「付立(つけたて)」などの技法が存分に活かされていた。

 
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この小品から、現在は所在不明だという大屏風の《奔馬図》を経て、《かりくら》に至る流れ。最低限の筆致で、的確にとらえられたからこその「颯爽」が源であるから、あの躍動感満載の《かりくら》の馬に繋がる。伝統の大木に、近代的技法が花開いていた。

 

殊に写生を重視したという櫻谷。動物園に通い詰めて描いたという動物たちの中には、狐の絵もあった。そう、あの狐である。

 
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《寒月》左隻

雪の竹林の、幻のような彼方から、そろりと歩いてくる一頭の狐。きらめく銀河のような竹の、吸い込まれるように美しい「群青」は、焼いて濃さを変えたものを重ね塗ったのだそうだ。

かなりの見物が、この絵の前で止まる。ゆっくりと静かに眺めていたいが、そうともいかず、あきらめて作品から少し離れたソファに腰を下ろす。

しばらくぼーっと眺める。すると、だんだん周りの音が消えてきた。不思議な感覚であった。さく、さく、と雪を踏む音が何処かから聞こえてくる。さく、さく、さく…

 

長くは続かず、気づけば狐の周りには、また人集り。ああ、もう少し聞いていたかった。

そんな静かな雪景色は、どうやら鞍馬で着想を得たらしい。そこで見た獣の足跡を、飢えて彷徨う狐と直感。夜の鞍馬や動物園に通い写生を重ねて完成したのが《寒月》である。

 

写生とは単に形を紙に写し取るためだけではなく、何十回と描いて深い自然観照にいたりその印象を脳に留めるためのものであり、写生帖なしでも瞑想で蘇るようにするのが目的である。そして自己の精神や思想を通した自然の再現こそが芸術である

画家自身の言葉が、この作品のなんたるかを、よく語ってくれている。あの宵の鞍馬が、そのとき思い描いた淋しい狐が、《寒月》には確かに描かれている。だからこそ私は、あの絵の世界に引き込まれたのだろう。

 

 

そんな代表作を観たあとは、晩年の作品を展示してある室へ。

なんとも愛らしい《葡萄栗鼠》や、青年のころ描いた威風堂々たるものとは違う、落ち着いた《獅子》、のんびりした狸や、来た道を振り返る(または、ついてくる者を見守る)ような優しげな鹿など、見ていて微笑んでしまうような絵ばかり。

先日、櫻谷文庫(旧木島櫻谷家住宅)で観た《画三昧》の境地か。図録解説によると「三昧」とは、仏教で「雑念を去り没入することで対象の真の姿がとらえられる」ことをいうのだと。

動物たちの表情には、どこか画家自身が感じられる。櫻谷がとらえた対象の真の姿。

 

 

「知られざる画家」が、徐々に見えてくる良い展覧会だった。すっかり好きな画家となった木島櫻谷、その師今尾景年や、同世代の画家たちにも興味が出てきたので、おもしろそうな展覧会を見つけたら、また出かけてみたい。ストロング缶のお姉さんも一緒にいかがです。