難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

歴史

私は歴史の本を読むのが好きだ。最近では化学史の入門書を読んだ。身の回りで何気なく使っているあれやこれが、幾重もの知識と研究との産物であったと知る。

以来、いつものマグカップでコーヒーを飲んでいても、まじまじと見つめて「ほう…」と感心するようになった。瓶も缶もすごい。いま着てるスウェットだって、腰掛けている椅子だってすごい。霊性を獲得するぐらい大切にしてしまいそうだ。

 

先日、行きつけのお店でよく会う人と、初めてじっくり話す機会があった。おもしろい話もあればそうでもない話もあり、しばらくすると歴史の話になった。というか私がやりはじめた。

それが「つまらない」と一蹴されてしまった。そりゃあ私は話が下手だけども、それでも話の流れに沿ったエピソードを挿入したつもりだ。

間髪入れず、二発目の蹴りをくらった。「歴史なんかどれだけ知ってたって何も活きないだろ、大切なのはいま自分たちがどう生きるかだ」

ああ、話の流れとかじゃなくて、それ自体がお気に召さない感じね。はいはい。

 

何事も活かせるかどうかはそいつ次第だし、その大切な「いま」も歴史の流れの中にあるのでは???

めちゃくちゃに言い返した記憶があるが、怒髪天を衝いていたのであまり覚えていない。おそらく論理もボロボロだっただろう。このあたり私は未熟だ。『怒らないこと』のスマナサーラ師に「本当に恥ずかしいほど頭が悪い」と言われてしまいそうなほど愚かだ。

 

 

次の日、ゆっくりと考えた。私は歴史をどう眺めているのか。なぜ好きなのだろうか。

「歴史は鏡」という言葉が浮かぶ。これはあの本で語られていた。小林秀雄『考えるヒント』だ。

 

 歴史を鏡と呼ぶ発想は、鏡の発明とともに古いように想像される。歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間達に、己れの姿を観ずる事が出来なければ、どうして歴史が私達に親しかろう。事実、映るのは、詰まるところ自分の姿に他ならず、歴史を客観的に見るというような事は、実際には誰の経験のうちにも存しない空言である。

 

歴史を覗いたときに見えてくるのは、無味乾燥な出来事の羅列ではない。私自身の姿だ。栄耀もあり、滅亡もあった。良いところも悪いところも含めて、私は私を愛する。

 

小林はこうも言っている。「現在の行動にばかりかまけていては、生きるという意味が逃げて了う」

「歴史は鏡」という使い古された言葉のホコリをさっと払えば、こんなにも光り輝く。その光は、生きている「いま」を照らす。

 

 

みたいなことを考えられたので、「つまらない」話をして良かったのかもしれない。しかし私も諸先輩方のように「昔はワルだった自慢」あたりの鉄板おもしろ話の腕を磨かねばなるまい。