難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

la 縄文

うまくいかない一日だった。最悪というわけではないのだけど、ずっとほんのりうまくいってない。天気もそんな感じだったね。ずっとうっすら曇ってた。晩ごはんのカレーはうまくできた。思わず二杯食べちゃった。

 

松下隆一『羅城門に啼く』読んだ。

 

舞台は大河ドラマ平清盛』での平安京のイメージ。荒れ果てた都。泥まみれの民。

そんなクソみたいな都で、身よりもなく盗んで殺してとクソみたいに生きてきた主人公が、処刑されそうになったところを空也上人に助けられる。六波羅蜜寺にある口からぴゅぴゅぴゅとなんか出てるあの仏像でおなじみの人。

反発しながらも上人に付いていく主人公。弟子的な感じになって善行を始めるのだけど、いろんな欲は収まらない。欲望、上人どのはどうしてはるんですか?と訊かれて空也はこう答える。

 

「吾は欲しくなることはない。欲しいというのは虚しい。地位でも物でも銭でも、手に入れたら守ろうとするやろ。それにもっと欲しくなる。これが悪の根本というものや。人は捨てるにかぎる。捨てたら執着がきれいになくなって、こんなに楽なことはない」

 

「欲しいというのは虚しい」という言葉、めちゃめちゃ刺さる。なんかもう最近めっちゃ思うこれ。虚しい。虚しすぎる。確かに虚しいんだけど、それはわかってるんだけど、やっぱり欲してしまうしなかなか捨てられない。そういう意味ではかなり「悪」に傾いた人間だと思うな私は。愚かなこっちゃ。

 

「ええかイチよ。求めてはあかん。与え続けることだけを考えるのやぞ。誰かに与えてさえおれば心が楽になる……求めるのは苦しゅうなるだけやからな」と、なぜだかそんなことを言う。

「なむあみだぶつ、と唱えておればええのでしょう」

「ああ、そうや。与えることは己が空っぽになってゆくということや。誰かに何かを求めて、得てばかりいると、愚かしい欲も積もってゆく。ええか。捨てるに捨てられんようになるから苦しい、それなら、はなから持たぬことや。何事にもとらわれるな。とらわれたら最後、そこから抜け出られんようになる。決してとらわれてはあかんぞ。ええな」

 

苦しいよな、わかる。愚かな欲にまみれた人間は苦しい。

与え続けて捨て去って楽になりたい。そう思うのだけども、このあと空也上人がふいにもらすように「人はそううまくはいかん」ものだ。

というか「与える」って行為、純粋に遂行するの難しくないか。「喜んで欲しい」みたいな欲が介入してくるんだけど。修行が足りなすぎるのか。苦しい。

 

小説は主人公が瀕死の遊女を救って……と展開していく。それからの主人公がこれまでの赦されぬ罪に苛まれたりだとか、最後までページを捲る手が止まらないほど夢中になった傑作。最終章めちゃめちゃ泣いた。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

 

読み終わっても、まだ「欲しいというのは虚しい」が刺さったままになってる。上人、どないせえというのや。なんにもわからん。ひたすらに虚しい。