難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

傷と運命

誰かの良いところを見つけるのに悦びを感じる。それは、つまるところ自己評価がめちゃくちゃ低いからかもしれない。

あの人にもこの人にもこんな良いところがある。だからきっと自分にも、って感じで、縋る思いで探しているっぽい。

 

別に自分のことは嫌いではなく、むしろ好きなんだけど、ほんとに何の能もないしダメダメだなあと思っている。でもまあやっぱ自分のことは好きなので、きっとそんな私にも何か良いところがあるはずだ、と信じたいんでしょうね。

 

みたいな話を人にするのは苦手だ。自分の仄暗い部分が噴出して、聞いている人までも覆ってしまいそうで。でも、溜まったものはいつか噴き出す。その場に居合わせてしまった人たちには申し訳ないが、そういうときもある。

 

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の付録「傷と運命」にこういうことが書いてあった。

人間は生き延びていく中で、記憶し続ける。つまり傷を負い続ける。だが、その中には、自分だけでは意味を付与できない、つまり消化できない記憶がある。記憶が一人ではうまく消化しきれない理由はさまざまに考えられる。それはその経験が一回性であるからかもしれないし、また、理解者がいないからかもしれない。もし、その記憶の消化を手助けしてくれる者が目の前に現れたなら、人はその人と一緒にいたいと願うのではないだろうか。

他者を介して発見される反復構造により「慣れ」を獲得して、一人ではどうにもできない記憶(傷)を消化していく。

なんとなく前からこういうことは考えていたけれど、言語化に至っていなかった。哲学者ってすごい。

 

ほとんどの人は、自分一人では消化できない記憶を抱え、その作業を手伝ってくれる人を求めている。ならば、人間は、その本性ではなく、その運命に基づいて、他者を求めることになろう。

「運命」なんて言葉は、ともすれば、それが組み込まれた文を陳腐化させてしまう危険性を孕む言葉だけれど、ここで使われる「運命」は、読む人の心をがっしりと摑む。

われわれはどうしようもなく他者を求めるし、それが人間の本性ではない何かに拠るのではないかと薄々感づいていたから。

 

傷を負うことが人間普遍の避けられぬ運命ならば、私たちは今日もまた他者と関わる。二日酔い気味だとしても。