難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

雨靴がほしい

五月の終わり。思い浮かぶのはアヤメ。初夏を、そして雨の季節を告げる花。この時期になると、部屋の掃除しなきゃとなる。

半袖になるタイミングも計っている。いまの段階で半袖になってしまったら、真夏はどうするんだと考えると、まだ先かな。

季節真逆だけど、秋が深まったくらいの、ちょい寒いくらいの時期にダウン着てる人をたまに見かける。真冬いけるのかお前。

 

そんな最近。大河ドラマ源義経が脱落してしまってから、義経関連の本をあれこれ読んでいる。

いまは寝るまえに町田康『ギケイキ 千年の流転』を。この人の文体はハマるときとハマらんときがあって、この作品ではしっかりハマった。

熱田神宮元服して名乗りも決めるくだりとか、声に出して読みたいくらい面白い。くらいというかしっかり音読した。声に出すとより面白い。寝るまえなのにめちゃ笑ってしまう。

 

 

あと、久しぶりに映画『博士が愛した数式』を見たので、数学いいぜって感じになっていて、岡潔『数学する人生』を買ってきて読むなどしている。

岡潔といえば、小林秀雄との対談『人間の建設』でおなじみの数学者。「無明」とか「小我」みたいな用語をぶっこんでくる、なかなか独特な思想の持ち主。哲学的であり詩的ではあるけれど、向き合えばなかなか単純直裁である思う。

 心がわかり合うというときの「わかる」は、口ではいえないような、意識を通して見ることのできないような「わかる」です。知的な「わかる」ではなくて、情的な「わかる」です。

 創造のはじめに働くのも情です。情というのは不思議なもので、わからないながらわかるという働きを持っている。そうして人は、情的にわかっていることを知的にわかるように表現していくのです。

 数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。

これとか、われわれが情的にわかっていたことを、上手く知的に言い表してくれていると思う。それにしても「わからないながらわかる」って深いな。

その状態のまま大切に取って置きたいものを、他人に表現するよう強いられたときとか、今度から「大丈夫っす、情的にわかってるんで」って言お。