難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

非イビピーオ的な話

岡潔は「宗教について」という文で、太平洋戦争が始まったとき、日本は滅びると思った、と書いている。そうして戦時中はずっと研究の中に、理性の世界に閉じこもって暮らしたと。

しかし戦争に負けても、国は滅びなかった。その代わりに、人の心はすさみ果てた。岡はこれがどうしても見ていられなくなり、研究に閉じこもるだけでは足りず、救いを求めるようになった。これが宗門に入る動機だったという。

 

私は「死なば諸共!」みたいな空気に触れたことはないが、そのただ中に放りこまれたら「あー、しんど」と思い、十中八九理性的世界に閉じこもるだろう。

いや、よく考えたら、学生時代に漂っていた「みんな一緒主義」に、この種のしんどさを感じていたかも。そして文学や哲学の世界に閉じこもっていた。なにが諸共だ。

 

そんな時代も過ぎ、最近ではぼんやりと「世の中は悲しみや苦しみに満ちている。はあ、つら」などと思っては落ち込むばかり。あの頃のようにボードレールを引用して、おお、死よ、年老いた船長よ、とか書く気も起こらなくなってきた。圧倒的パワー不足。心は平安を求めだした。

 

それで、去年あたりから少しずつ宗教の本を読み始めた。主にキリスト教で、聖書物語だとか教史だとかに、かなり夢中になった。めんどくさそうなので入門はしないけど。

「もうダメだ…」ってなったときに、そういやああいうこと書いてたな、と薬みたいに引っ張り出して、心を落ち着かせている。

 

ある程度落ち着いたら、理性的世界に戻る。あらゆることをもっと知りたいから。

誰かと対峙することもある。ときには自分とも。かなり疲れるし、めちゃくちゃ辛くなったりもする。するのだけれども。

 

「宗教について」は、こんな一文で終わっている。

 宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。しかしまた自他対立のない世界は向上もなく理想もない。人はなぜ向上しなければならないか、と開き直って問われると、いまの私には「いったん向上の道にいそしむ味を覚えれば、それなしには何としても物足りないから」としか答えられないが、向上なく理想もない世界には住めない。だから私は純理性の世界だけでも、また宗教的世界だけでもやっていけず、両方をかね備えた世界で生存し続けるのであろう。

 

私はこの人ほど深い宗教的世界に足を踏み入れてはいないのだけれど、これを読んで強く共感した。「うわ~~めっちゃわかる」と間の抜けた声が出てしまうくらい共感した。

 

爆発的な自己嫌悪に襲われて、ここ数日何もできなかったりしたんだけど、まだ「物足りない」と感じるうちは大丈夫かな。と、少しだけ気力が戻った。