難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

待ってまった

夏が本気出してきた、と思ったがまだ六月であった。あと三ヶ月近くも暑い季節が続くなんて、考えただけで気が滅入る。

外はモワモワと鬱陶しい湿気。冷房つけて室内で過ごすに限る。

最近また数学に関する本を読んでいる。「関する本」なので、予備知識はあまり要らない。数学は大の苦手である。

 

mathematics という言葉は、ギリシア語の μαθήματα(学ばれるべきもの)に由来するらしい。そんな「学ばれるべきもの」についてハイデッガーはこんな論を展開しているそうだ。森田真生『数学する身体』より引用する。

 

 学びとは、はじめから自分の手許にあるものを摑みとることである、とハイデッガーは言う。(中略)すなわち、人は何かを知ろうとするとき、必ず知ろうとすることに先立って、すでに何かを知ってしまっている。一切の知識も、なんらの思い込みもなしに、人は世界と向き合うことはできない。そこで、何かを知ろうとするときに、まず「自分はすでに何を知ってしまっているだろうか」と自問すること。知らなかったことを知ろうとするのではなくて、はじめから知ってしまっていることについて知ろうとすること。それが、ハイデッガーの言う意味での mathematical な姿勢なのではないだろうか。

 

岡潔「情的にわかる」「知的にわかる」に通ずるところがある。数学音痴な私でも、この学問を「わからないながらわかる」ということがあるもんかね。

手許にあったけど、摑もうとしてこなかっただけだったのかな。そう思うと、なんとなく親しみが持てる。

いまから摑む努力をしようとは思えないけども。今度生まれたら。

 

まあ今度今度と言うやつはいつまで経ってもやらないものです。