難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

知育

早いもので6月がもう終わろうとしている。そこそこ忙しくてあまりインプットもアウトプットもできていない。古代ギリシア人は奴隷制が生まれてヒマができたから万物の根源(アルケー)探しに熱中できたらしいし、やっぱりヒマがなければ。などと言い訳。ヒマがあっても無駄にSNSやらで溶かしてしまっているだけ。

 

昼食を摂りながら、なんとなく「ゆる言語学ラジオ」今井むつみ先生ゲスト出演雑談回を見ていた。

水野さんが今井先生の著作を片っ端から読んで、インタビューや論文にまでも触れてから撮影に臨んでいたので、今井先生が感心しっぱなし。というかあそこまで勉強してきてくれたら話すの楽しいだろうし、相手に好感持ちまくりだろうなと思う。「へー、そんな研究あるんですかー」ではなく「それ著書にありましたね」と返せる方が印象いいし、話も早い。(堀元さんは立ち位置的に「へー」と聞く役割なのでそれでいい)

私も「仲良くなりたい」「いい印象を持たせたい」と思う人と会うまでには、可能な限り情報を入れていくタイプだったのだけど、最近はあんまりできていない。飲み屋での偶発的な出会いばかりで、そういう機会も減ってきた。交流もどんどん狭くなっていっている。でもいまはそういう時期で、これでちょうどいいと思っている。そのうちまた新しい風も吹くだろう。

 

動画の中で、今井先生の著書(『学びとは何か 〈探求人〉になるために』)からこんな一文が引用されていた。

ある機能に限定された道具やおもちゃのみ子どもに与えつづけていると、子どもが本来持つ、ものごとを象徴化する能力を損ねてしまう危険性がある。

電話機のおもちゃは電話のまねごとくらいでしか遊べないけど、ブロックや積み木なら色んな物に見立てて(象徴化して)遊べる。ある機能に限定されたおもちゃばかり与えていると、「これはこれだな」と考える力がなくなる。

最初聞いていたときは「ほうほう」って感じだったけど、水野さんが「SEが入っているYouTubeは好きではない」「遊びの用途を限定されていて象徴化する余地がないから」と話していて、うわーーマジでそれだ!わかる!となった。積み木を色んな物に見立てて遊ぶような、そういう能力を楽しむ。「これはこれかな?」って考えたりとか、私たちそういうの大好きなんだよ。

思えば、その能力を損ねてしまったであろう人たちとは絶望的に合わないもんなあ。会話って、積み木遊びかもしれない。「これお家ね」「これ車ね」をある程度違和感なく共有できる人じゃないと楽しく遊べない。

 

そんで「これってこれじゃない?」が上手い人、めっちゃいい例を出してくる人って、やっぱり学んでいる人だ。たくさんの知識を得て、体系化できている人。こういう人との会話はそりゃ楽しい。

私なんかはあれこれ読んでみてはいるものの、あんまり知識を整理できていないので、パッと繋げられないあたり話下手だなと。

積み木遊びはお片付けも大事。