難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

言語の種

外が暑すぎて出かける気にならない。お昼なにか食べに出ようと思ったんだけど、日中は無理だな。好きな食堂とか町中華に行きたい、とんかつ屋さんにも行きたい。秋まで無理かも。秋なんて存在するのか。それか曇りの日にしよう。急な雨が怖いな。

 

そんな土曜日、川原繁人『なぜ、おかしの名前はパピプペポが多いのか?』を読んだ。

プリキュアポケモンなどを題材にして面白い研究をしている言語学者の川原先生が、母校である和光小学校で行った特別授業が土台になっている。つかみの、日本語母語話者は「連濁」や「ライマンの法則」を無意識的にではあるが、抽象的なルールとして知っている例としての「にせたぬきじる」と「にせだぬきじる」の話がもう面白い。こういう話聞くと興味持つよね。

 

合間の補足説明で語られる、言語学者として人間の言語学習能力を信ずる思いが素晴らしい。

 現代言語学の根底には、人間の言語獲得能力に対する絶対的な信頼があります。特定の障害がない限り、人間という種族は言語を身につけることができ、その言語知識はとても豊かなものです。

(中略)私の妻も言語学者ですから、娘たちの成長とともに言語能力がしっかりと育っていくことを知っており、小さい時の言い間違いを無理に直そうとせず、大事に見守るという方針が取れました。

 そんな川原家ですが、娘たちの言語能力をしっかり伸ばしてあげたい、という点では夫婦の間の意見が一致しています。ことばというのは、すべての学びの基礎になるものですからね。前に述べたように、我々夫婦は人間の言語能力に絶対的な信頼感を持っています。これは喩えれば、人間は「言語の種」を持って生まれてくると信じているわけです。

 しかし、きれいな花が咲き実を結ぶために太陽光と水が必要なように、日本語の能力の花を咲かせるためには、日本語の養分を与えることも大事だと思っています。

人間は言語を身につけることができるという絶対的な信頼があって、だから子どもの言い間違いを単純に「間違い」とは見做さない。子どもたちの言語にも規則がある。そこを見つめられる言語学者の目。そしてその上で、身近なことばの疑問なんかを通して養分を与えていく。頭ごなしに「間違ってる!なんで正しいことばを使えないの!?」と矯正しちゃうと開かないかもしれない自由な花。

 

ほんとに、イチから言語を習得するというのは一大事業だ。日夜それに取り組みまくっている子どもたちはすごいし、なんとか使えるようになった私たちもすごい。最近はそう思ってきている。

言語は音韻、文法、語彙のすべてにおいて複雑な構造を持っている巨大な記号の体系である。まったくの初学者である子どもは、その一つひとつを分析し、解明しないと、自分で自由に使えるようになれない。母語を使いこなしている大人にとっても、言語の構造を分析し、理解するのは至難の業である。だが、言語を学ぶ幼い子どもは、好むと好まざるとに関わらず、自分で仕組みを発見しなければ、言語を使えるようになれないのだ。

と今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』に書かれていた。感動するよね。昔の自分、よく頑張ったな〜〜って。だからなにかと「私ってバカだからさー」ってすぐ言う人に対しても、「なんで??言語使えてるのに??」って思っちゃう。

 

最後の方、「ものの名前ってどうやって決めたんですか?」っていう難問のところで、聖書の話が出てきた。キリスト教の宣伝がしたいわけでもなく、信じなさいって言うつもりもないけど、聖書がもとになった物語を聞いて育っている人は世界中にたくさんいるから、それを知っていると世界中の色んな人とお話がしやすいよ、だから日本の子どもたちにもちゃんと読んでもらいたいな、って話。すごくよくわかる。それともうひとつ、

こういうキリスト教や仏教とかの本って、すごく大事な質問、簡単に答えが見つからないような問いに関する考えが入っているの。

例えば、世界はどうやって生まれたのか、人間はなぜ生きているのか、ものの名前はどうやって決まったのか、とか。

たぶん科学技術がどんなに進歩しても解明できない、でも人間にとってはとっても大事な質問が詰まっている。

ほんとにね、これ大事すぎる。答えの出せない問いっていうのはたくさんあって、なんなら身近に転がっていて、私たち人間はそれについてずーーーっと考えてきた。全てが100点満点!やったあ!ではない。というかむしろ答えのない問題のほうが圧倒的に多い。いい授業だな〜〜。

 

そういえば小学生に教えるにあたっての注意点、「わかった?」って聞いちゃだめっていうの成程〜と思った。「わかった」としか反応のしようがないから。一方通行だ。これは大人に教えるときもそうだろうね。誰かに何かを教えるようなことが今後あったら気をつけなきゃな。