難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

奇想天外

フランス人はHの発音苦手だから、8月はアチ月になっちゃうんじゃないか。とか考えていた。今日も暑い。風の強さが不穏でもある。台風の進路よくわからんけども、こっち来るんですかね。

 

今日は山極寿一・鈴木俊貴『動物たちは何をしゃべっているのか?』を読んだ。

ゴリラ研究で有名な山極先生、私が大学生だったときに京大総長に就任して話題になったのでそれで知った。鈴木先生はこの本で初めて知ったが、シジュウカラの文法を解明した気鋭の動物言語学者。すごい。東京大学にて世界初の動物言語学分野を創設したのだと。重ねてすごい。そんなゴリラになった研究者と、鳥になった研究者の対談。

 

対談始まってすぐ、鈴木先生が「あそこにいるのはエナガですね」とか「この声はこういう意味」とか夢中になって「すみません。鳥の声が耳に入るとつい彼らの世界に入り込んでしまうんですよね」。それに山極先生が「いいんです。ところで…」と鳥の言葉の話へ。このいきなりどこか通じ合っている感じ、小林秀雄岡潔『人間の建設』の冒頭を思い出す。「大文字の山焼きがある日だそうですね」「私はああいうのには興味ありません。小林さん、山は焼かないほうがいいですよ」「ごもっともです」から始まって「学問をたのしむ」の話にピョンと入っていく。いいなあ。かっこいい。

 

学者の話でおもしれ〜〜ってなるのはやっぱり実験の話。シジュウカラが何か意味のあることをしゃべっているとして、たとえば「ジャージャー」は「ヘビだ!」と思って出してる声なのか、それとも「逃げろ!」なのか「怖ええ!」なのかわからない。そう鳴くときにヘビをイメージしているのかどうか確かめなきゃいけない。そこで、見間違えを利用した実験をする。ヘビくらいの大きさの木の枝にひもをつけて、木の幹沿いに引き上げながら「ジャージャー」を聞かせると、シジュウカラは必ず枝を確認しに行く(ヘビと見間違える)らしい。別の音声ではダメで、「ジャージャー」でしか反応しない。特定の音がヘビのイメージを想起させることを示した。

実験の話、つまりどういうこと??ってなってしまうことが多いんだけど、「シンボルをきっかけにして見間違えが起こること」に関する好例を挙げてくれていたのですんなり理解できた。その例が心霊写真。ただの影であっても「これ、人の顔じゃない?」と言われると、そう見えてきて怖くなる。顔のシンボルとしての「ヒトノカオ」という音が、視覚的なイメージを呼び起こすから。わかりやすい!!

 

あとルー大柴のルー語をヒントにして、初めて聞く奇妙な文章でも、文法の力があればルールを当てはめて理解できる、と思い立って、シジュウカラとともに群れをなしているコガラの言葉を混合させた鳴き声を聞かせる実験に取り掛かったり、発想が柔軟だ。

いやーしかし、私たちが外国語に慣れてきたらなんとなく理解できてくるみたいな感じで、シジュウカラもコガラの言葉がわかるようになったりするもんなんだね。驚き。

 

「動物たち、すげえ」という気持ちになる。そういう気持ちになると、人間と動物を区別している自分に気づく。ヒトもおんなじ動物なのに、驕ってるなあ。何様なんだ、と反省させられる。「私たち、色んな分野でそれぞれすげえ!動物最高!」であるべき。

 

色んな分野でそれぞれすげえ。そう。私たちヒトは、文字をつくった。これは紛れもなくすげえこと。すげえんだけど、文字はわれわれ本来のコミュニケーションを衰退させてしまうかもしれない。対談の終盤を読んでいて、おそろしくなった。文字からこぼれ落ちるものの話。

山極 もちろん、文字による論理は読者にも伝わるでしょう。でもね、本来、論理は書かれた文字だけではなく、ジェスチャーや抑揚、文脈など、多様なコミュニケーションによって作られるものだったはずなんです。

 それなのに、逆に文字が論理を作ってしまっている。文字と論理との役割が逆転してしまっているんです。

対面のコミュニケーションの重要性。前に山極先生が何かの番組で言っていたことを思い出す。一緒に夕焼けを見る、そういうことでお互い感じていることがストレートにわかる、みたいな話だった。あるよなー、あるある。とてもよくわかる。文字にならない、言葉にならない、こういうコミュニケーションは確かに可能だし、それが消滅してしまうと思うと、寂しい。

 

言葉、文字。これらはすごいものだけど、おそろしいものでもある。依存しすぎてはいけない。私たちが読み取れるのは、それだけじゃない。目線、表情、身振り手振り。ただいっしょにいるだけで仲良くなれる、不思議な共鳴。めちゃめちゃ幅があるぞ!私たちのコミュニケーション!ということを忘れずにいたい。