難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

お前はお前

台風の影響なのか、曇りがちだったり風が強かったりで、暑さがだいぶマシだ。でも空気がヌメっとしていて不快ではある。「ヌメっとした空気」というと、なんだか中原中也「春の日の夕暮」の一節を思い出す。「ただただ月の光のヌメランとするまゝに 従順なのは 春の日の夕暮れか」ぜんぜん春じゃないんだけどね。なんとなく。

 

オモコロ永田さんの昨日の日記を読んで、色々考えさせられた。寄せられた質問に答える記事だった。「ドタキャン癖のある友人とどう折り合いをつけたらよいか」みたいな相談に、永田さんは「ダルい」ってことは意思表示すると答えていた。そして、「相手を変える」という気持ちを持っちゃダメ、「嫌なところを直してもらう」ってのは絶対にしちゃいけない。無理だから。とも答えていた。「自分はこういうことされたら嫌」という意思表示に留める。それを受け止めてどうするかは相手次第。そこはもう自分の領分じゃない。

 

それは完全にそう。そうなのだけど、少し前まで私は「変わってくれたらいいな」が捨てられずにいた。「そういうの嫌」ってのを伝えて、その上「直さないとヤバいよ」みたいなのも結構言っていた。相手のことを考えているつもりだったけど、違う。自分の領分を越えて、干渉しすぎていた。その結果、いつまで経っても変わる気配のない相手にイライラしたこともあった。相手を思い通りにしたいだけだったのかもしれない。

その人にはその人の考え方、やり方があって、こちらの意思表示を受けてどうなるかは相手に任せなきゃいけない。「知らね」となる場合もあるし、「気をつけないと」ってなってくれる場合もあるだろう。そういうこともまるっと含めて「その人」であることを認めないと、バランスのとれた付き合いというのはできない。

 

何年も「変わってほしいな」と思い続けて、あれこれと干渉しまくった結果、なんにも変わらなかった知人がきっかけで気づいた。対等な付き合いをしているつもりだった。だが、私はその人をまったく認めてはいなかったのだ。

思えば尊敬している友人なら、「変わってほしい」なんて思わないかも。「そういうやつだし、そんなとこがおもしろかったりするんだよな」となる。そう思うと、件の知人にはたいへん失礼なことをしてきた。

 

だから今回の記事を読んで、あ〜〜わかる!完全にそう!となった。意思表示は続けていく。でももう余計に踏み込むことはしない。それで「こいつダルいな」となったら、そのダルい部分は避けて付き合っていく。ドタキャン癖があるなら予定合わせたりはせず、当日これからどう?で誘うようにする、とか。それでもどうしようも合わなくて、付き合うのもアレだな、となったら致し方ない。冷たいような感じもあるが、相手を変えようと過干渉するほうが冷酷だ。