私は、旅館、料亭、小料理屋、酒場、喫茶店などは文化そのものだと思っている。そこで働く人たちも文化である。私自身は、そこを学校だと思い、修業の場だと思って育ってきた。
何度か引用してきた山口瞳『行きつけの店』あとがきの一節を、懲りずに引用した。これから書こうとしているのは、「行きつけの店」であり「学校」の話であるからだ。
行きつけのバーが先月末(先週土曜に臨時営業もあったが)閉店となった。学園がコンセプトの一つとしてあって、店名にも「学園」と付いていた。初めは「いかがわしいお店みたいだなあ」と思った。実際、夜中に勘違いして来るお客さんも多かったのは、今となっては笑い話だ。
店主(学園長)が以前働いていたバーで初めて会ったときの記憶は朧げだが、この店に初めて来たときのことはよく覚えている。ドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』(2020年(令和2年)3月20日公開)が話題になっていた頃で、学園長と三島の話で大いに盛り上がった。私はこの頃、文学や言語、映画に音楽などを気軽に語らえる場を求めていた。
すぐに気に入って通うようになった。分野は違えど、ここに来る人たちは、そんな知的好奇心豊かな人が多いように感じられた。時には冗談交じりに、時には大真面目にアレコレ語り合った。哲学の話。科学の話。時事。おもしろ心理学実験。われわれで国を作る話。人生について。店を出ると外が明るい、ということも何度かあった。
この場所は「学校」だった。名前がそうとかではなく。
学びの場であり、出会いの場でもあった。なぜか同年代のお客さんが多く、なんなら小中学校の同級生と再会したりもした。この店がなければ再び交わることはなかっただろう。縁とは不思議なものである。縁が縁を呼ぶ。あんま縁縁言ってると怪しいビジネスっぽいからこの辺にしとこう。
社会においての「当たり前」を、忘れかけていた大切なことを復習させてくれた場でもあった。やらかしたとき、うだうだ変な自己正当化で言い訳したりせず、さっさと「ごめんなさい」しに行く、とか。勇気の要ることだけど、対面できちんと話すことから逃げない。それができた。失敗だらけの私を見捨てずにいてくれた皆のおかげだ。お前らってホント最高の仲間!友情に感謝!青春に乾杯!あんま言ってるとマイルドヤンキーっぽいからこの辺に。
茶褐色のレトロ風な階段を三階まで上がって、細長く怪しい通路を奥まで入れば、その店があった。空間としてはまだある。しかし、場所としては、もうない。
通路を進んでいるときに聞こえてくる笑い声や、カラオケの歌声。それで「ああ、誰々が来てるっぽいな」ってわかる感じ。それが、もうないのだ。
でも、私たちがあそこで過ごした日々は消えない。あそこに新しい店が入って全く変わってしまっても、不気味な赤い壁や、鍵が普通と逆のトイレ、グニャグニャの椅子、瓶詰めされた幽霊など、決して忘れない。ビルが建て替えとなり消えてしまっても、あのダルい階段、一階に集まっていたネコ、DJイベントのとき陰の軍団で固まってた踊り場、忘れない。
不思議な気持ちである。悲しいとか、寂しいとかじゃなくて。ただ不思議。
久しぶりにあの曲を聴く。吉田凜音『忘れない Place』大切な曲。最後に引用して終わろう。
どこにいても
私たちの過ごした日々は
心の大切な場所にある
Anytime Anyplace
くだらない笑い話ほど
懐かしく思い出すものよ
Anytime Anyplace
私たちを繋いだ歌は
耳元で優しく響くよ
どこにいても
ほら、大好きなメロディ
口ずさめばいつも一緒だから
忘れない Place