難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

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2月が終わった。今月はインプット量がめちゃ少なかった。なので当然アウトプットも少ない。よろしくないね。

 

知識が増えていくのは楽しい。そしてそうやって楽しく仕入れた知識を、雑談で上手く使えるともっともっと楽しい。

何も持たない私は、知識で人間世界に混ざり込んでいるなあと思う。知っていることが増えると、話せることも増える。そうすると、話せる人も増えていく。知り合いが増えていくと、その中に気の合う人も見つかったりして友だちになって、楽しさは広がっていく。とてもいい営みである。

 

だから今月みたいにインプットが貧弱なときは焦ってしまう。世界から取り残される気がする。置いて行かれたくない。

というか単純に楽しくて大好きなことに打ち込めてないってのがヤバい。だから「調子悪い時期なんだな」と思ってしまう。

 

友人が単身赴任を終えて帰ってきたので、久々に飲みに行った。色んな話をして刺激をもらった。

人生なんて何の意味もない。だた生まれて、死ぬだけ。それだけなんだけど、でもどうせならおもしろおかしく、ちょっとでも楽しいものにしていこう、そうやって生きている人が私は好きだ。無味乾燥じゃつまらない。

 

その友人には負けない。私も楽しくやるぞ。

届いたはいいものの読む気になれず積んでいた本を手に取った。

おちょこ龍

熱が出て、落ち着いて、また出て、という感じで体調がよくない2月。高熱出てダウンみたいなの、めったになかったんだけどな。体力が落ちまくっている。なんかスポーツしようかな。バスケしたいな。安西先生

 

回復期に、地元の酒造の酒蔵開きに行ってきた。そこの社長さんと行きつけの角打ち酒屋で知り合って、蔵開きあるから遊びに来なよと誘われたのである。行き方まったくわからなかったのだけど、「駅からシャトルバス出すよ」とか詳しく教えてくれた。感謝。

 

酒蔵開き、初めて行ったけど楽しかった。入口で紙コップに注がれた日本酒を配っていて、どうやらそれは飲み放題っぽく、何度も取りに行っている人もいた。私も数回おかわりした。屋台も出ていて、焼売を買ってつまんだ。f:id:pppauline:20240217052354j:image

行列に並んで蔵開き限定酒を買ったり、ふるまいの甘酒や豚汁をもらったり、有料試飲で出ていためちゃくちゃいいお酒を飲んだりして、存分に楽しんだ。

社長さんにも会えて、少しだけ話せた。「今年の蔵開きはコロナ以降のここ数年で一番賑わっていて、とても忙しい」と語る顔は嬉しそうだった。私も嬉しくなった。

 

限定酒をもう一本買い足した。帰りに、それを持って角打ち酒屋へ寄った。常連たちで賑わっている。みんなで限定酒を飲んだ。酒好きの常連たちはとても喜んでくれた。いい一日だったなあ。夢見心地というか、フワフワした一日だった。そういう日があってもいい。

足袋

ここ数日体調がすこぶる悪かったのだが、ようやく落ち着いてきた。

土日のどちらかはほぼ毎週近所の町中華でからあげ定食を食べるのだが、先週末は無理だった。からあげ大好きな私が「からあげ食べたいなあ」と思わないのは相当である。今週末にはモリモリ食べられるといいな。

 

岡田悠『0メートルの旅』読んだ。

GWの東京が混みすぎなので、最も検索されていない駅へ行くの記事を読み、おもしろかったので本書を探していたのだけど、近所の書店では見つからなくて、気がつけば半年近く経っていた。そしたらこの間、何かのきっかけで経済制裁下のイランに行ったら色々すごかったの記事も読み、これもおもしろくて「さすがにそろそろ買わねば!」と某密林で注文した。買ってよかった。どの旅もめっちゃくちゃおもしろいし、文章がとにかく上手い。こういう文章書きたいな〜というお手本。

 

「はじめに」から良すぎる。旅の記憶。小学校の帰り道、白線から出たら死ぬ日を思い出す。家までの最短ルートは途中で白線が途切れているので、わざわざ遠回りをして帰った。それでも家のちょっと前で白線が終わっているので、「息を止めると無敵」というルールを急遽作り、足早に玄関へ駆け込んだ。

 

私は自転車に乗れるようになるのが、かなり遅かった。自転車に乗る必要があまりなかったのだ。家の真裏が小学校だったし、友だちもみんな近くに住んでいた。うちの何軒か隣に駄菓子屋があって、そこでお菓子を買い、近くの公園で遊ぶ。そんな毎日、歩きだけでも何ら不便なことはなかった。

高学年になって、行動範囲が広がった。みんなで商店街へ買い物に行くとき、私はひとり走ってついて行っていた。「自転車に乗れるようになりたい」と、やっと思った。練習している姿をみんなに見られたくなくて、夏休みに祖父母の家に滞在し、ひたすら自転車に跨った。はたして私は自転車に乗れるようになった。

 

中学生になり、私は自転車で走り回った。違う小学校出身の友達の家。これまで家族と車でしか行ったことのなかったショッピングモール。本やCDを集めるようになり、市内各地のブックオフを巡ったりもした。どんどんマップが広がっていく。

高校生になって、電車で隣の市までライブを観に行った。受験生になり、オープンキャンパスで県外の大学を見に行った。また世界が広がる。

都会での一人暮らし。新シリーズが始まった感じだ。マップをまた広げていく。ライブハウスに通い始めてパンクスのお兄さんにおそるおそる話しかけたり、趣味の合う友だちを求めてサークルの新歓に突撃したりした。お酒も飲めるようになり、飲み屋街の魅力と恐ろしさを知った。サークルの仲間と、レンタカーや夜行バスで色んな県に行った。一人で行くことも多かった。年に一度は18きっぷの旅をした。大垣駅の乗り換え、いなり寿司を買っていたら間に合わなかったのとか思い出す。

 

地元へ戻る。子どもの頃には行かなかったようなところに足を伸ばす。良さげな角打ち酒屋に、おしゃれなワインバー。雑草が茂りまくっていて、どこから入っていいのかわからない古書店。山の上にある古戦場跡を見ようとノリで登ってみて、途中でのどが渇いて死にかけたりもした。山頂の自販機、貴様だけは許さぬ。でもありがとう。

 

旅をしてきた。海外に行ってあの史跡を見た!とかあの美術館に行った!という経験はないけれど、私は旅をしてきたのだ。

 旅を辞書で引くと、「定まった地を離れて、ひととき他の場所へゆくこと」と書かれている。

 定まった地とは、きっと日常そのものだ。日常は安心で、快適で、大切な僕らの基盤である。だけど予定通りの毎日を繰り返しているうちに、とその存在が曖昧になっていく。日常が身体にべったりと張りついて、当たり前になって、記憶にすら残らない時がただ過ぎ去っていく。

 

 旅とは、そういう定まった日常を引き剥がして、どこか違う瞬間へと自分を連れていくこと。そしてより鮮明になった日常へと、また回帰していくことだ。

 

 地元に戻ってから、ほとんど県外に出ることはなくなった。学生の頃より、確実に「日常」の粘度は高くなっている。でも、どこにいたって旅はできる。ただ目の前に夢中になる瞬間。0メートルの旅。とてもいい本だった。

がらん

先週末は楽しいこともあった。が、それ以上に残念なことの印象が強い。プラマイゼロ、むしろマイだった。

怒りを感じると相手のことを嫌いになったりするけど、「残念だなあ」と感じると、相手への興味や感情が薄れていく。「残念だなあ」と思わされる度ごとに、感情が動かなくなってくる。やがて限度に達したなら、もうなにも思わなくなるのだろう。すべてが初めから無かったかのように。

 

今日は一日ぼんやりとしていた。気がついたらこんな時間だ。

本読んで早めに寝る。

スコーン祭り的なイベントに行ってきた。正直、一番の目的はトートバッグだったのだけど、五千円くらいしてて諦めた。六百円くらいかと思ってた。ユニオンジャック柄のかわいいトートバッグ。

スコーン自体は多分初めて食べた。いろんな種類あるので迷ったけど、いきなり変わり種もアレかなと思ってプレーンを食べた。案外しっとりしていた。これ、ロンドン風のスコーンで、田舎風とは異なるらしい。田舎風のも食べたけど、こちらはけっこうボソボソしていた。一分でスコーン何個食べられるかのギネス記録に挑戦したら詰まって死ぬと思う。

 

秦正樹『陰謀論』読んだ。

世の中、よくわからんことが多すぎる。魔境ことツイッターを見てみると、明らかに性転換アプリ使って女の子のフリしたおっさんがグルメ情報を発信している謎のアカウントがあったりする。それに「かわいいね」とリプをつけているアカウントも大勢見られる。修正が雑すぎるので上着のジッパーと皮膚が一体化したりしてるのに、おかしいとは思わないのか。いや、あれは「そんなこと皆解って楽しんでんだよ」案件なのか。そういうノリだとしても、よくわからん。おっさんだとわかりきった作り物の女の子がランチしてる投稿に日々リプを飛ばさないと救われない何かを彼らは背負っているのか。

そのアカウントには「ちゃんと修正してくれ!バレバレだから!」ってツッコみたくなるし、毎日リプを送っている人には「マジなのか?まさか本当に気づいてないの?大丈夫?」と聞きたくなる。実際にこういうツッコミを入れているアンチ(?)も存在する。これはこれで余計な気がする。関わらなくていい世界にわざわざ踏み込むことはないのだ。

気になるのは気になるけどね。わからんすぎるから。なにが目的なんだ。実はこれ、わざとツッコみたくなる要素を詰め込みまくって衆目を集めるように作られた巧妙なグルメ情報発信アカウントなのではあるまいか。私はまんまと乗せられているのではないだろうか。

 

わからないことには理由が欲しくなる。そんな誰にでもあるようなきっかけから、人は陰謀論に飛び込んでいくんじゃないだろうか。向こうから近寄ってくるのではなく、こちらから飛び込むのだ。「これってこうなのでは…」と密かに考えていた論を補強してくれる存在なのだから。

 

「なぜ」陰謀論を信じるかという問いと、「誰が」陰謀論を信じるかという問いは、質的に見てもやや異なる話題ではある。しかし、そうした問いへの答えは、両軸で行う分析の中から見出すしかない。本書の分析結果を敷衍すると、ネット右翼やオンライン排外主義者に近い意見を持つ「普通」意識を持つ人、リベラル左派が多くを占める野党支持者、あるいは、政治に関心が高かったり知識が高かったりする人も、みな、「自分の信念に沿う」陰謀論を信じる傾向にある。こうした分析の結果から導かれる答えを整理するならば、「誰が」に対応する答えは「誰もが」ということになるだろうし、「なぜ」に対応する答えは「自分のモノの見方を支えてくれているから」ということになるだろう。

あらゆる人がいつ陰謀論に引っかかってもおかしくない。人には人の陰謀論

人間には「なぜ」を追求したいという欲求がある。これは止められるものではない。陰謀論は、そんな人間の好奇心を餌に成長していく。この生き物が完全に消滅することはないだろう。ただ、巨大なバケモノにしてしまわぬよう餌を抑える術はある。「自分の中の正しさを過剰に求めすぎない」という姿勢である。何事もほどほどに。

 

日本人の「心の中」で陰謀論がどのように受容されているのかという難問を解明するために、丁寧な実験・調査の観察がなされている本文もさることながら、あとがきがめちゃくちゃ良かった。著者のカミングアウトがアツい。

 筆者が陰謀論に関する研究をはじめたのは、2016年ごろからである。院生時代から、博士号を取得したあとは日本の陰謀論を研究テーマにしたいと決めていた。というのも、筆者は学部生時代に、いわゆる「ネトウヨ」だったからである。政治学を学び始めた動機も、「外国に支配された日本を救いたい」という「愛国心」に突き動かされてのものであったし、少なくとも当時の筆者はそれを「普通」と考えていた。まさに本書でも言及したように、「ただ日本を愛するだけの普通の日本人」なのになぜ「ネトウヨ」などと揶揄されるのだ、と強い反感を覚えることもあった。もちろん、大学院に進学し、実証政治学を学ぶ過程で、そうした大きく偏った政治的考えは完全に霧消し、当時の「崇高」な信念は、単なる「黒歴史」に変わってしまったわけだが……。

もともとはそういう政治思想を持っていた著者だからこそ真に迫ってできた研究であり、書けた本だった。いい話だな。

そしてそんな異色のモチベーションでやってきた著者のどんな突飛なアイデアも、どうすればおもしろい「研究」にできるか親身になって考え育ててくれた指導教員の話。著者がポスドクになれず無職になったとき「間違いなく成功する研究者だ、諦めるな」と励ましてくれた先生の話も良かった。こういうあとがきを読むと、こうして本書を読めているのが感慨深い。

 

偏った思想や過剰な正義感は、人とのふれあいや豊かな学びによって霧消するものなのかもしれない。

ハイプレ

先週末の日曜はライブだった。あんまり上手くはできなかった。無念。

PAさんが調節してくれてるから当たり前なんだけど、スタジオでの練習より音が綺麗に聴こえるので、ミスが目立って恐ろしい。細かいミスが山ほどあった。派手なミスも数回あった。無念無念無念。

でも全然ついていけてない感じではなかったと思う。日々の練習のおかげでボロボロにならずに済んだ。毎日コツコツやってると、確実に身につくものはある。そのおかげで救われることもある。

 

ライブの合間に初めてDJをやった。DJといっても、CDを入れて流して、隣の機器にもCDを入れておいて、よきところで切り替えるくらいしかしてない。でも楽しかった。好きな曲を大音量で流せるのは楽しい。

Angel Witch - Angel Witch

Gun - Race with the Devil

Baker Gurvitz Army - Help Me

Budgie - Breadfan

Black Sabbath - Wicked World

このあたりを流した。いま思うと全部イギリスのバンドだ。

もっとCD持って行けばよかったな。あんまり「ガチじゃん」って感じになっちゃうとアレかなとか思って手提げに数枚しか入れて行かなかったんだけど、こういうのはガチになって楽しんだほうがよい。

 

昨日はわが県でも珍しく雪が降った。今日も寒い。今年の冬は余裕だな〜〜と思っていたけど、突然牙を剥いてきた。体調なかなか悪い気味なので、これ以上崩さぬよう気をつけてまいる。

無添

週末にライブがあるので今週はスタジオ練習多めだった。疲れるけど楽しい。

曲もしっかり覚えて弾き慣れてくると、少し余裕が出てきて、細かいところまで「ここもっとこうした方がいいな」と気がつくようになった。良くもあるし悪くもある。細かいところまで考えすぎて、全体として演奏が合わなくなったり。難しい。考えたり考えなかったりしながら演っていきましょう。

 

pha『しないことリスト』読んだ。

世の中の「しなきゃいけないこと」の大半って、しなくてもいいことだったりする。ショッピングとかけっこうそうなんだよな。どうしても絶対に欲しいものってそんなにない。次の日になると「要らんかもな」となる。

寝る前にぼんやりAmazon見るのは危険だ。すぐにポチッと買えてしまう。ほしいものリストに入れておいて一旦満足して寝ると、朝起きたときには「要らんかも」になっていがちなので、すぐにポチらない方がいい。ほしいものリスト、増え続けていて一向に減らない。いいなとは思うけどなくても困らないものリストになっている。

 

今年の流行のファッションはこれ!とか、この機器がないと時代に乗り遅れる!みたいな売り文句が嫌いすぎる。だからどうしたのって感じだ。なんかこう、買わなきゃヤバいみたいに半ば強制されてるのが嫌すぎ。それが好きだったり必要なのであれば買えばいい。

 

あと、やっぱり面倒な頼まれごとみたいなのもできるだけやりたくない。そのために「自分を大きく見せない」というのが有用だ。

 他人には「こいつはダメな奴だし変な奴だ」と思われていたほうがラクだ。そのほうが「この人はこういうことをやってくれるはずだ」とか「この人に任せよう」みたいな期待を押し付けられずに済むからだ。他人から期待されないほうが自分の好きなように行動しやすい。

好きなように動けるのが一番いい。面倒なことがなくなると、それだけやりたいことや大事な人たちのために時間と体力を使える。ゆっくり休んだりもできる。「なんでもできる人だ」と皆から頼られるのも誇らしいかもしれないが、私には荷が重い。

 

でもこれ、かなり自信が必要なことだなとも思う。「ダメなやつだなあ」と周りに思われていても意に介さないのは、めちゃめちゃ強い。私は弱い人間なので、寄りかかれるなにかが欲しい。著者みたいに京大卒とかの紋所があればいいんだけど、私にはなにもない。なので積極的に知識を取り入れ、披露するようにしている。せめて「なんか色々知っているやつ」くらいになっておきたい。そうすればただのダメすぎ無能人間みたいな評価は下されないですむんじゃなかろうか。そうだったらいいな。

 

それと、澁澤龍彦が『快楽主義の哲学』で書いていた「韜晦」の技法を大いに参考にしている。

 むしろ、すすんで相手に誤解の材料をいっぱい提供してやり、自分のまわりに誤解の煙幕をもうもうと張りめぐらして、その煙幕のなかに、自分の真実の姿をかくしてしまったほうが、はるかに気がきいているではありませんか。こういうやり方を「韜晦」(ミスティフィカシヨン)といいます。(中略)

 正体のわからない人物というのは、魅力的なものです。世間なんて甘いもので、いつも黒めがねをかけている正体不明の人物には、なんとなく複雑な陰翳がありそうな気がして、つい敬意を表してしまうのです。

あまり自身のことは話さず、学問・文化・芸術などの話題を広げていく。「なんかよくわからんけどすごそうなやつだ」と思わせたら勝ち。そこからは勝手に良く評価し続けてくれて、ぞんざいにも扱われない。いい感じで楽な付き合いができる。

 

うまく楽して生きていきたいものです。いいとこだけ取りたい。大トロ人生。いやでも大トロはいっぱい食べると気持ち悪くなっちゃうから、中トロがいいな。バランス良いし。中トロ人生で。