難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

足袋

ここ数日体調がすこぶる悪かったのだが、ようやく落ち着いてきた。

土日のどちらかはほぼ毎週近所の町中華でからあげ定食を食べるのだが、先週末は無理だった。からあげ大好きな私が「からあげ食べたいなあ」と思わないのは相当である。今週末にはモリモリ食べられるといいな。

 

岡田悠『0メートルの旅』読んだ。

GWの東京が混みすぎなので、最も検索されていない駅へ行くの記事を読み、おもしろかったので本書を探していたのだけど、近所の書店では見つからなくて、気がつけば半年近く経っていた。そしたらこの間、何かのきっかけで経済制裁下のイランに行ったら色々すごかったの記事も読み、これもおもしろくて「さすがにそろそろ買わねば!」と某密林で注文した。買ってよかった。どの旅もめっちゃくちゃおもしろいし、文章がとにかく上手い。こういう文章書きたいな〜というお手本。

 

「はじめに」から良すぎる。旅の記憶。小学校の帰り道、白線から出たら死ぬ日を思い出す。家までの最短ルートは途中で白線が途切れているので、わざわざ遠回りをして帰った。それでも家のちょっと前で白線が終わっているので、「息を止めると無敵」というルールを急遽作り、足早に玄関へ駆け込んだ。

 

私は自転車に乗れるようになるのが、かなり遅かった。自転車に乗る必要があまりなかったのだ。家の真裏が小学校だったし、友だちもみんな近くに住んでいた。うちの何軒か隣に駄菓子屋があって、そこでお菓子を買い、近くの公園で遊ぶ。そんな毎日、歩きだけでも何ら不便なことはなかった。

高学年になって、行動範囲が広がった。みんなで商店街へ買い物に行くとき、私はひとり走ってついて行っていた。「自転車に乗れるようになりたい」と、やっと思った。練習している姿をみんなに見られたくなくて、夏休みに祖父母の家に滞在し、ひたすら自転車に跨った。はたして私は自転車に乗れるようになった。

 

中学生になり、私は自転車で走り回った。違う小学校出身の友達の家。これまで家族と車でしか行ったことのなかったショッピングモール。本やCDを集めるようになり、市内各地のブックオフを巡ったりもした。どんどんマップが広がっていく。

高校生になって、電車で隣の市までライブを観に行った。受験生になり、オープンキャンパスで県外の大学を見に行った。また世界が広がる。

都会での一人暮らし。新シリーズが始まった感じだ。マップをまた広げていく。ライブハウスに通い始めてパンクスのお兄さんにおそるおそる話しかけたり、趣味の合う友だちを求めてサークルの新歓に突撃したりした。お酒も飲めるようになり、飲み屋街の魅力と恐ろしさを知った。サークルの仲間と、レンタカーや夜行バスで色んな県に行った。一人で行くことも多かった。年に一度は18きっぷの旅をした。大垣駅の乗り換え、いなり寿司を買っていたら間に合わなかったのとか思い出す。

 

地元へ戻る。子どもの頃には行かなかったようなところに足を伸ばす。良さげな角打ち酒屋に、おしゃれなワインバー。雑草が茂りまくっていて、どこから入っていいのかわからない古書店。山の上にある古戦場跡を見ようとノリで登ってみて、途中でのどが渇いて死にかけたりもした。山頂の自販機、貴様だけは許さぬ。でもありがとう。

 

旅をしてきた。海外に行ってあの史跡を見た!とかあの美術館に行った!という経験はないけれど、私は旅をしてきたのだ。

 旅を辞書で引くと、「定まった地を離れて、ひととき他の場所へゆくこと」と書かれている。

 定まった地とは、きっと日常そのものだ。日常は安心で、快適で、大切な僕らの基盤である。だけど予定通りの毎日を繰り返しているうちに、とその存在が曖昧になっていく。日常が身体にべったりと張りついて、当たり前になって、記憶にすら残らない時がただ過ぎ去っていく。

 

 旅とは、そういう定まった日常を引き剥がして、どこか違う瞬間へと自分を連れていくこと。そしてより鮮明になった日常へと、また回帰していくことだ。

 

 地元に戻ってから、ほとんど県外に出ることはなくなった。学生の頃より、確実に「日常」の粘度は高くなっている。でも、どこにいたって旅はできる。ただ目の前に夢中になる瞬間。0メートルの旅。とてもいい本だった。