難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

枚挙に

「本当のことを書く」というのが、町田康『私の文学史』で、絶対におもしろい文章を書くことができるコツなのだと述べられていた。普通のことなのだけど、難しい。どうしても色々といじくってしまう。特に昨今、何が燃えるかわからない時代だから、こんな誰も見ていないような文章でも、もしものことを考えて言葉を選びに選んでしまう。これをこう言い換えて、なんてやっているうちに、「本当のこと」は姿を消す。そうして、取るに足らない文章が出来上がる。いやはや上手くいかぬ。せっかく書くならおもしろい文章がよいね。

 

あと「オートマチックな言葉」と「文学の言葉」の話も良かった。

なんにも考えんと出てこなあかんことが出てくる言葉ってありますよね。「枚挙にいとまがない」。「枚挙」と言うたら、「枚挙ってなんやねん」と思わんと、思う前に「いとまがない」となるじゃないですか。(中略)「枚挙に」と書いたら、考える前に「いとまがない」とすでに書いているんです。というか、今やったら、勝手に変換しくさっているんです、そいつら。

 そいつらって誰か知らんけど、wordとかそんなやつ。やつじゃないですけど、勝手に変換しくさっているから、文学やったら、そこで、「何、勝手に変換しとんねん」と言うんです。「なめんな、このクソwordが。何、勝手に変換するんや。俺は文学者やぞ」と。「枚挙にと書いたらやな……いとまがないやがな。すんませんでした」となるわけですが、その立ち止まりが大事なので、それが文学なんです。でも、それを、「このクソwordが」と言う前に、自分の頭の中にそのクソwordが入ってもうているんです、すでに。

 

私はけっこう「オートマチックな言葉」に抵抗しているつもりだ。世間で無思考的に発話せられている言葉に対する「なんやねんそれ」の姿勢。立ち止まって考えるための、その材料としての文学の言葉、非日常的語彙。マスの言語が怒濤のごとく襲い来る時代だからこそ重要だと思う。おもろく在りたいからね。