難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

Regard

「まなざし」が何とか言っていたのはサルトルだっけ。不勉強な私は『存在と無』なんて読んでいないし、この用語もよく解っていない。しかし、自分だけで自身を構築するんじゃなくて、確実に他者のまなざしも、私という存在を形づくる上で関わっているよな、とはめっちゃ思う。

「俺は俺流を貫く。誰になんと思われてもいい。かっこいいだろ」と吹聴しちゃう感じの人、そんなにかっこよくないがち。「なにあれ、ダッサ」と思われないように見せるのも、かっこいい「自分」を形成する上で重要だ。

 

変り者はエゴイストではない。社会の通念と変った言動を持つだけだ。世人がこれを許すのは、教養や観念によってではない、附き合いによってである。附き合ってみて、世人は知るのだ。自己に忠実に生きている人間を軽蔑する理由がどこにあるか、と。

なんて小林秀雄が書いていた。

「附き合ってみて」というのが大事なところで、「なにあれ、ダッサ」と思われてしまっては、まともな付き合いに発展しないので、変わり者みたいなアウトサイダー的な捉え方はしてもらえず、単にダサいやつ、めんどいやつ等になってしまう。

 

私などは頭の出来が良くない、つまりバカなのがずーっとコンプレックスなので、少しでも知的な人間になれるよう、それこそ小林秀雄みたいな人を理想としているのだが、そのために、他人から「あいつはなにやら知的な雰囲気あるぞ」と見られるよう意識している。

人間というのは期待に応えたくなる生き物のようで、知的なように見られると、「知的であらねば!」と奮起して知識を蓄えたり、会話でなかなかそれっぽい返答ができたりする。そしたら、相手もなんとなく「ほうほう、なんかそれ含蓄ありますね」とかって感心してくれる。嬉しい。もっと知識を蓄えて、上手く話せるようになろう、と思う。

 

そう見られるように意識する、ができていない人は悲惨だ。「俺は賢いんだ!こんなことも知ってるんだ!誰々と比べてこうなんだ!」とワーワーうるさいやつは、いかにもアホっぽいので、「こいつアホやな」と見られてしまう。実際に賢くても、見せ方が下手。

「賢い俺」と、他者に「アホなやつ」と見られているズレは、ことあるごとに大きくなる。「なんでこいつらには俺の賢さが伝わらないんだ。よし、ここはいっちょ『存在と無』に関する議論でも展開して見識の広さを知らしめるしかない」と息巻いても、「なんかようわからんこと急に言い始めた、やっぱアホやな」となる。なんならアホな上に空気読めてないやつに進化してしまう。「アホやな」と見られてしまう呪縛は、恐ろしい効力を持つのだ。ズレにズレていった結果、激烈にイタいやつが完成する。

 

もしくは扱いを受け入れて「俺ってアホなのかな」と自信を喪失してしまう場合もある。本当に賢い人でもそうなるのだから、私みたいな無学の徒が「こいつアホや」と見られてしまうと、もうどう足掻いてもそのまなざしに囚われる。アホ道一直線である。侮られすぎると、侮られて然るべき人間になってしまう。

「こう見られてるんだろうな…」でなく「こう見られるぞ!」の姿勢で諸可能性オセロゲームしていく。