難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

metonymy

最近暑くなってきた。というか、蒸し暑い。嫌いな季節の訪れを感じている。

でもまだ夜はちょい肌寒い日あるので、鍋ギリいけるかな〜と思い、買い物に出かけた。肉や野菜をたくさん買って、さて帰ろうかとスーパーを出たとき、何かが近づいてきた。

 

旧校舎の長〜〜い廊下を拭きまくったあとの雑巾みたいな布を身に纏った、ひょろひょろの爺さんが、片手で煙草をスパスパさせながら、自転車でフラーっと近づいてきたのだった。飢えた野良犬のような目がギョロリとこちらを睨みつけ、なにか怒鳴ってきた。人語のようだ。よく聴けば解読できそう。

 

「どけコラァ」とかなんとか言っているようだった。なるほど、彼の危険運転の邪魔をしてしまったのか。それで怒っているのだな、ふむふむ。なんて思って見ていたら、「なんか文句あるのか」と怒鳴りつけてきた。じーっと見すぎちゃった。特に文句はないので立ち去った。

遠ざかる私の背に、爺さんは暴言を吐き続ける。ものすごいエネルギーだ。何が爺さんをあそこまで怒らせるのか。お肉欲しかったのかな。

 

 

暴言の嵐を浴びれば、血気盛んな若者なら応戦してしまうかもしれない。しかし、あの感じの憎悪に、憎悪を返してはならない。「新たな憎悪を生むだけで無益」とか言いたいわけではなくて、とにかくヤバいからやめた方がいい。怨霊みたいなもので、反応してしまうと魅入られる可能性がある。憑かれたら終わり。無益どころか大損。触らぬヤバいやつに祟りなし。

 

彼らは悲しい存在である。淀みきった目は、世の全てを憎んでいる。醜いものを見すぎたのだろうか。美しいものを知らずにきたのだろうか。のほほんと暮らしてきた私にはわからない。

しかし、誰もがヤバいやつ化してしまう危険性を孕んでいる。そうなってしまわないように、私は物事を面白がる目を養ってきたのだ、と思った。阪大の文学部長(日本語学者の金水敏先生!)の式辞が最近話題になっていたけど、本当に、人文学の真価は人生の岐路に立ったときに発揮するね。そんなようなことを鍋つつきながら考えていた。鍋って、ほとんどポン酢を味わうために食べてるとこあるよな。馬路村のゆずポン酢は最高に美味い。