難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

グッグフーム

「でも」「だって」の防壁を堅牢に築くのはよくない。私の身近にこういう人間がいるのだが、何も聞き入れてくれないので何を言う気も起こらなくなった。一つ前の記事にも書いたが「ま、いっか」となってきている。好きにしてくれ。

私はこういう評価を下されると困る。信頼できる人たちに思ってることをぶつけてもらって、右に左に揺れながらなんとか前進してきたからだ。「ま、いっか」と見放されると、とんでもない方向へ暴走したまま戻れなくなる可能性がある。それは本当に困る。

 

譲れない意見はある。何か言われて「でもそれはさ」「だってあれは」と反射的に出ることもある。しかし冷静になって、相手の話もよく飲み込まないと、籠城したまま詰みということになりかねない。

私たちは間違える。そんなとき「やれやれ、困ったもんだ」と助言してくれる人は貴重である。

 

山極寿一『スマホを捨てたい子どもたち』読んだ。

スマホに吸われる時間、無駄すぎるな〜〜と思いながらも、なかなか山極先生のようにガラケーしか持たないしなんなら基本見ない!とはできない。まあでもそもそもSNS上のつながりよりもリアルな対面のつながりのほうが圧倒的に好きなので、書かれている内容はめちゃくちゃ共感できる。

 

マッチングアプリとか意味わからないもんな。使ったことないものの悪口言うのあれだけども。最初に数値とかデータ見て選別して……ってその出会い面白いのか?と思ってしまう。バチバチくるのかそれで。

 人間と人間との出会いや関係は、決して予測できるものではなく、どういうところで火花が散るかわかりません。それは、人間はそれぞれ予測がつかないような中身をもっているからです。どう表現されるかは、その時々によって変わり、それを他者は、数値でなく直観で判断します。人間と自然の出会いも、人間と動物の出会いも、動物同士の出会いも同じ。そこで新たな関係が生まれ、別の出来事によってその関係が壊れ、あるいは関係が持続されたり強化されたりする。そこで起こることを100%予測することはできません。だからこそ、人間と動物の出会い、人間同士の関係は面白いのです。

偶然出会って、関わり合っていく中で、ある日ある時バチッとくる。このよくわからん感じがやっぱり面白い。

 

人付き合いの最適解みたいなものを求めちゃいけない。そんなのないから。常によくわからん。にも関わらず「意味」重視の言葉に頼って相手を理解したがるのは危険だ。完全に理解した気になって、でもわからん部分はそりゃ出てくるから、その度に「なんでなんだ!!」って逆上したりして。相手にしてみればいい迷惑だ。曖昧なところは曖昧なままにしといたほうがいい。

 共感というのは「相手の気持ちがわかる」ことです。それを、「相手を理解すること」だと誤解している人たちが、多いように思います。相手を「理解」するのではなく、ただ「了解」することが、互いの信頼関係を育んだり、好きになったりする架け橋になるということがわからない。同調する能力があるにもかかわらず、それがお互いの信頼関係を育んだりすることもわからない。さらには、他者の自分に対する感情や、他者に対する自分の感情が、「好き」という言葉で表される感情に匹敵するものなのかどうかも判断できないのです。

 その不安が、身近な人への過度なこだわりや要求となり、それがいじめや嫉妬、暴力につながっているのではないでしょうか。実際には生み出されていない信頼を、一番近くにいる仲間に過剰に求めるがゆえに起きている不幸な事件も多いのではないかと思います。

「その不安」、よくわかる。私はけっこう誤解してきたので。身近な人への過度なこだわりや要求をやらかしまくってきたので。油断するといまだにやらかしてしまうので。

 

やらかしまくってはきたものの、人とはいろいろ関わってきた。あんまり得意ではないけれど、それでも人間関係を広げていってよかったなと思っている。いまの私を形作っているのは、関わってきた人たちである。

自分を受け入れる友だちとだけ付き合っていれば生きる意味がわかるかというとそうではありません。いろいろな人間関係があるからこそ、自分が存続できます。人間は他者の評価によってつくられるものです。だから、いろいろな自分をつくっておかないと、ある特定の個人が自分を拒否、否定したら自分はなくなってしまいます。自分を支え、自分に期待してくれる人がいろいろいるからこそ、どこかで信頼を失っても、どこかで関係が崩れてしまっても、生きられるのです。

 

寝る前になんとなくって感じで読み始めたけど、めちゃくちゃ「わかる!!」となって一気に読んでしまった。最近考えていることと合致していたってのもあるかもしれない。『ムラブリ』読んだ後だしね。山極先生と伊藤先生、対談してくれないかな。

 

本当だよ

「ま、いいや」で流すの、ストレス軽減のためにすごく大事だ。よくよく考えてみれば多くのことはどうでもいい。

もともとそういう身軽な人間だったはずなのだけど、いつの間にかたくさん荷物を背負っていた。全部持てますよなんてカッコつけちゃダメだ。重たすぎてイラついて、むしろカッコ悪いじゃないか。いらないものは置いて行こう。といった感じの最近。

 

伊藤雄馬『ムラブリ』読んだ。

以前読んだエヴェレット『ピダハン』に似ているが、あれにはかなり言語学的に込み入った話があったので、こちらの方が読みやすい。言語学あんまり馴染みないよっていう人でも楽しめそう。タイやラオスの山岳地帯に住む少数民族ムラブリの言葉を研究する言語学者の話。

 

ムラブリ語には「おはよう」「こんにちは」などの挨拶がない。その代わりに「ごはん食べた?」とか「どこ行くの?」と言ったりする。が、そもそもは言葉で挨拶することはなく、目が合うと顎をスッと上げる動作をするだけでいいらしい。

あえて言葉で挨拶する場合、「ごはん食べた?」や「どこ行くの?」と質問する。それには「えーと、とくにどこに行くとかはないけど、あえて言うなら散歩かな」と厳密に答える必要はない。内容は重要ではなく、適当なタイミングで「畑に行く」とか言えば違和感がない。

そんな感じでいいんだ、不思議。と思って読み進めると、そこから「言語は意味のある情報を交換するためにあるのではない」と展開されていた。

 

確かによく考えると日本語でも「おはよう」と言われて「いや、今日はけっこう遅めですよ」と返す必要はない。まったく意味のないやりとりだ。ならば、「おはよう」の交換は別に必要ないのでは?となってくる。

 では、なぜ意味のない「おはよう」を交換するのか? この理由を考えるには、言語は「意味」とは別の何かを伝えていると考える必要がある。では、あいさつは意味以外のなにを伝えているのか。それは「関係性」だ。

誰かとコミュニケーションをするとき、交換されているのは意味だけじゃない。私とその人との「関係性」も交換されている。

とても重要なのに、最近見落としていた気がする。情報量の多い充実した議論も楽しいが、新情報皆無などうでもいい会話もまた大事。それは「関係性」を交換するコミュニケーションだから。心に刻もう。

 

あと面白かったのが、バベル的言語観に対するコーラン的言語観の話。

「言語がバラバラだと困るよね」という話、よくバベルの塔の逸話を引いて語られる。これはおなじみだけど、違う聖典にもまた、神様が人間をバラバラにしたという話が書かれているらしい。それがコーランだ。

バラバラにしたのは同じだけど、理由が異なる。「君たちがお互いをよく理解するために民族をバラバラにした」というのである。深い。

 

これは萩原朔太郎『月に吠える』の序文を思い出す。

 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とを持つて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。

同じ言語をしゃべっていると、この違いを忘れてしまいがちだ。私と彼との「かなしみ」は全然別なのに。「よろこび」も異なるのに。語学はそのことに気づかせてくれる。私の「かなしみ」と彼の「sadness」はなんだか違う、というようなことを。

そんな小さな発見から学べるものは大きい。皆が皆、それぞれの感情を、感覚を、価値観を持っている。私たちって、全然違う。違うから理解したい。近づきたい。もっと仲良くなりたい。

 

 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。

 とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。

 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。

言葉ではわかり合えないことがある。思ったことを完全に表現するのは至難のわざだ。完全に表現できたとしても、完全に受け取られるかどうかはわからない。

朔太郎は言う。「詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である」と。

 

『ムラブリ』を読んで思った。「おはよう」や「どこ行くの?」みたいに意味を交換するわけではないコミュニケーションも、これと同じなんじゃないか。詩や音楽のような「言葉以上の言葉」なのではないか。

そこで交換される「関係性」の中でしか理解し合えない感情が、感覚があるんじゃないか。だからこそ、意味のないコミュニケーションがわれわれの仲をよりいっそう深めてくれるのではないか。なんて。

 

オモコロの人たちが意味のない「ぺいっちょ」とか「ハマチャン」とか言いまくってるの、「言葉以上の言葉」だったんだな。仲いいもんな。納得。

えびすくい

12月なのにこんなにあったかいの異常だよな、とか話していたら、この週末急に寒くなった。毛布を出さねば。冬本番。

忘年会で鍋もつついた。冬すぎる。馴染みの面々と美味しいもの飲み食いしながらボードゲームで盛り上がっちゃったりする時間、いつまで経っても大好きだな。UNO公式ルールで初めて遊べて嬉しかった。

 

ついに最終回、『どうする家康』見た。

乱世を生き抜き、長い戦の果てに太平の世を成し遂げ「神」となった徳川家康という「人」の物語。

最後に鯉の思い出話が挿入されるの良かった。そうそう、家康ってそういう人なんだよ。天が遣わせた神の君でも、狡猾で恐ろしい狸でもない。信長から贈られた立派な鯉を食べたくてたまらない家臣たちからドッキリ仕掛けられちゃうような人。なんだかんだ皆から厚い信頼を寄せられている人。平八郎が言うように、皆よくわかっているのだ。家康という人を。

後世ではすっかり神になってしまった。私もやはり徳川家康といえば「神君」だとか「狡猾な狸」のイメージを持っていた。でも今作を見て、少し印象が変わった。この人のことが少しわかったような気がする。いい大河だった。

 

北川景子の演技も圧巻だった。燃え上がり崩れゆく大阪城で皆の自決を見届け、己も乱世とともに散ろうとする茶々。彼女が残したこの先の世に対する台詞は、現代社会に生きるわれわれにも痛切に響く。

日の本か。つまらぬ国になるであろう。正々堂々と戦うこともせず、万事長きものに巻かれ、人目ばかりを気にし、陰でのみ妬み嘲る。やさしくて、卑屈なか弱き者たちの国。

己の夢と野心のために、なりふり構わず力のみを信じて戦い抜く。かつて、この国の荒れ野を駆け巡った者たちは、もう現れまい。

茶々なりの正義と、乱世の夢。身に迫る炎よりも遥か遠くを見つめ、笑みを浮かべる。最後の亡霊はここに滅びた。われわれの前には、確かにもう現れまい。

 

壮絶なシーンだけでなく、小ネタも良かった。ゲスト出演の小栗旬源頼朝について言及したり、そのとき吾妻鏡の上に源氏物語が重ねられていたのもニクい。というかいま気づいたけど最終回サブタイトルの「神の君へ」、来年の『光る君へ』に繋げてるじゃん!すご!

次作も楽しみだね。ということで寝ましょうね。こんだけ書くのに時間かかりすぎだからね。寝ますね。

きのこる

「2、3万あれば大丈夫だよ」とか言われたときに、2万なのか3万なのかはっきりしてくれ!と思う。1万違えば全然違うぞ。それで焼肉行けるから。これと同じで「2、3個買ってきて」も困る。

いやでも私も全てに於いて細かいわけじゃなくて、なんならテキトーな物言い多いから人のこと言えないんだよな。「じゃあ2、30分後に」とか言っちゃう。人には人の細かポイント。

 

川添愛『世にもあいまいなことばの秘密』読んだ。

普段からSNSという魔境で様々なすれ違いを目にする。言葉とは本当に難しい。

通名詞を含む文が「言い過ぎ」になっている例として出ていた「日本人はマナーが良い」みたいな(というかまったくこの)文で地獄のリプライが展開していたり、めちゃめちゃよくある。

これ、組み合わせがよくなかったんだな。普通名詞と「性質を表す述語」が組み合わされると、その普通名詞は「カテゴリー全般」という解釈がしやすくなる。組み合わされるのが「動作や単独の出来事を表す述語」だった場合はそうならない。

スポーツ大会観戦後、日本人サポーターが座席の掃除をしていた、という報道を目にして「やっぱ日本人はマナーがいいんだなあ」と呟いたりすると、「マナー悪い人もいますけど」みたいに噛みついてくるクソリプラニアが集まってくる。でもそれ、曖昧な呟きというエサを与えてしまったがゆえでもある。

 

「日本人」という「カテゴリー全般」の話をしているんじゃないよ、あくまで「観戦していた日本人サポーターの人たち」の話だよ、と明確にしなければならない。なので組み合わせには気を遣って……

って考えると呟くのって全然気楽じゃない。何も言えなくなってしまう。ので、呟き程度ならそんなに意識せず、誤解を与えてしまったときには、「私はこういうつもりだったんですけど、こう書いて(言って)しまったので、そのように解釈なさったんですね、ややこしくてすみません」と説明できるくらいでいいのでは。もちろんハチャメチャに噛みついてくるヤツは無視でいい。

そんな説明ができるようになるためにも、かなり有益な本だ。

 

お笑い芸人のネタなんかも例に使われていて読みやすい。「表面的に現れない主語や目的後」の例で、アンジャッシュのコントが参照されている。

それと、とにかく明るい安村の「穿いてますよ」も出てきた。これ、英語の文では主語と目的語を補わなくてはならないので、イギリスでネタを披露したとき安村は「I'm wearing」と言っていたし、でもまだ目的語が欠けているので観客が「pants!」と叫んでいた。この話かなり記憶に新しい。もう言語学の本に取り上げられていてフフッとなった。

 

読み終わって気づいたけど、この本のタイトルも『[世にもあいまいなことば]の秘密』なのか『世にもあいまいな[ことばの秘密]』なのか曖昧だ!

こういう題名つけられるのオシャレだな。いつも書き終わった後に「あーこれでいっか」って感じでポンと題つけるので見習いたい。今回もそれでござい、悪しからず。

しはせる

気がついたら10日も記事書いていなかった。年末ってやること多い。師走っていうくらいだしね。僧ではないんだけど。

ちなみに僧侶(師)が忙しく走り回る月、っての含めて語源は諸説あるみたいだけど、『新明解語源辞典』によると「信じがたい」とバッサリいかれてた。

 

ドラマが終わっていく時期だ。大河も。

『どうする家康』来週で最終回。大坂の陣、悲しい戦だな。乱世が終わった後の世に必要な人物だと思われた秀頼が、秀頼こそが乱世の亡霊たちが作り上げた最後のバケモノだった。本当のラスボスは茶々じゃなくて秀頼だったんだ。

この物語の根幹は、家康とお市、この二人。そこに信長と秀吉、茶々と秀頼が絡まっている。そんな風に思えた。

最終回寂しいけど楽しみだ。チラッと予告に徳川家臣団のみんなが出てたけど、あれ『平清盛』の海の底的なアレだよね。泣いちゃうだろ。泣いちゃうよ。半蔵はちゃんと居るかな。

 

日曜劇場『下剋上球児』も次回で最終回。でもこれ、試合はもう今週の準決勝、星葉高校戦が最高潮だよね。南雲監督と賀門監督、翔と児玉・江戸川の関係的に。

ベタ中のベタだったけど、翔が最後代打で出て、ライバルの児玉からサヨナラ打つの良すぎた。ベタなのって結局めっちゃ良いし、日曜劇場はベタな感動を震わせるの上手いんだこれが。

 

ちょうどさっき『新明解語源辞典』を出したので「ベタ」も引いてみたけど載ってなかった。少し調べたら諸説ある中で「べた一面」という言葉に関係あるのでは?というのを見つけた。これは載っていた。「すきまなく表面全体に及んでいる様子」の意だそうで、「べた」は「べた塗り」「べたぼめ」などとも使われる。これの方がbetter説よりも納得感ある。

納得感とお布団に包まれながら寝る。この一週間インプットがよわよわなので、読書頑張っていこう。

 

動物たちの小宇宙

夕方、買い物に出たら小学生がワイワイと下校していた。2年生くらいの男の子が「あっ!〇〇さん居た!」と前を行く集団の方へ走って行った。

このくらいの時期はまだ男女の隔てなく無邪気に遊んでいた。高学年になると、こんな風に名前呼んで走り寄ったりするの憚られるようになってくよな。とか思ってぼんやり男の子の方を見ていたら、駆け寄った先に居たのは男の子だった。

さん付けで統一するやつ、ニュースとかで見たことはあるけど、実際に観測したの初めてだ!変わらない下校風景でも、世の中じわじわと変わって行ってるんだな。

 

川原繁人 feat.Mummy-D・晋平太・TKda黒ぶち・しあ著『言語学的ラップの世界』読んだ。

川原先生、けっこうガチめな日本語ラップ好きだったんだな。愛と誇りを持って取り組んでいる言語学の見地から、これまた大好きなラップの世界を探検していく。好きが溢れてる素敵な本。

 

日本語ラップ、私が子供の頃けっこう街中に溢れていた。 KICK THE CAN CREW大好きでよく聴いてたな。本書を読んでから久しぶりにCD引っ張り出して聴いてみたんだけど、sayonara sayonara 出だしからヤバい。「be quiet」と「指くわえ」で踏んでるのとか。本で解説されてたイツナロウバの「It's not over」と「静まろうが」のやつだ。

なにいまさらキックの韻に驚いてんだって感じだけど、日本語ラップ分析読んでからだと改めて衝撃受けちゃうから!というかキックなんて最高なんだから何回衝撃受けてもいいでしょ!

 

そんな大好きなKICK THE CAN CREWと、あとはRHYMESTERと、他なに聴いてたかな。m-floRIP SLYME、SOUL'd OUTなどなど。

映画『狂気の桜』見たのきっかけでKダブを知って、そこからキングギドラ聴いたりもした。公開処刑、多感な時期には刺激的だった。おめえのグレートフルデイズも今日まで!

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日本語ラップは言語芸術である」と川原先生は主張している。その前の章で、ラップは「韻を踏む」という制約があるので、日常会話では組み合わされそうにない単語が組み合わされる、その「異化作用」によって日常的な言語活動が破壊され、新たな創造的表現が生まれる、つまり「制約は創造の母である」という話をしておいての「ラップ=言語芸術」論の流れ、華麗だ。

川原先生は「言語学というレンズ」のおかげでラップの芸術性を深く知れた。敬愛するラッパーたちのやっていることも、「この人たちがやっていることは、これだけすごいことなんですよ」と証言できた。「言語学を研究する意義はここに(も)あると感じられる」と書いてこの章を締めくくっていた。じーんときた。言語学が世の中のためにできること、たくさんある。

 

併せて川原先生とMummy-Dの対談動画も見た。

この中でMummy-Dが「ラップがなくなることはない」という話(31:37〜)をしている。「21世紀、ラップというものを知っちゃった僕らは、もうラップがない世界は想像できない」「単純に、歌だったらしのぎ切れない無調音楽になった瞬間、シンガーはどうするのか。僕らはラップでその時間をしのげる。だから自由度が高い」「なにか困ったときにじゃあラップにして言ってみよう、っていうのは選択肢の一つとしてずっとあり続けると思う」と。

これあれだ!ザ・グレート・アマチュアリズムの「オレの時代が終わっても このブームが去って明後日にも ごみ箱漁っても 電気すらなくなっても 最早とめられないこのアートフォーム」だ!

 

日本語ラップ。いままさに「芸術」として確立されようとしている、その域まで達しようと燃えたぎっている若くてアツい音楽ジャンルだ。あーーーーB-BOYイズム聴き直そ!

 

最後に、この本のテーマソングも最高なのでCheck!してみてほしい。

動画はショートバージョンだけど、今日(11月30日)フル音源も配信されたのでバリバリ聴き込むぞ。

 

オモコロのグルメ審査員選手権の記事読んで、味の素のザ★シュウマイとザ★チャーハンが食べたくなったので買いに行ったけど、両方売り切れてた。なんでだ。みんな記事読んだのか。

ニチレイの本格炒め炒飯を買いました。安定の美味さ。

 

 

高野秀行『語学の天才まで1億光年』読んだ。

辺境ノンフィクション作家の超ド級語学体験記、ということで語学要素だけでなく冒険や青春の話が盛りだくさんで楽しい本だった。エピソードがとにかく強すぎる。インドで同じ宿に泊っていた白人女性に付いて行ったカトリックの施設で出会った小さなおばあさん、後から知ったその正体はマザー・テレサだったり。そんなことある??

そのインドで盗難に遭って、英語で詳細に説明しなければならなくなり、「トラブルは人を強くする。語学も鍛えてくれる」という気づきを得る。これが著者のRPG的語学冒険で初めに得た魔法の剣だっただろう。いや、これはまだ木刀だったかもしれない。それ以降、必要に迫られる度に剣を手にし、開かずの扉をこじ開けていく。

 

言語は二種類あると著者は言う。「情報を伝えるための言語」と「親しくなるための言語」だ。機械翻訳が発達し、語学の必要性が問われるいま、果てしのない言語学習の旅を続け、「親しくなるための言語」で世界中の人たちと触れ合ってきた著者のこの言説には重みがある。

 翻訳や通訳は、ガラス越しでの会話みたいなものだ。興味を抱いた他人と、ガラス越しではなくじかに触れたいと思うことは、人間の本能に根ざしているのかもしれない。互いの心臓の鼓動を聞くような語学は生き続けると、私が確信するゆえんだ。

 

ミャンマーのシャン州にある小さなエリア、ワ州の話が興味深かった。ここでの話が詳しく書かれた『アヘン王国潜入記』読みたすぎる。書名に「アヘン王国」とある通り、ワ州は世界最大の麻薬密造地帯、別名ゴールデン・トライアングルの核心部。非合法アヘンの六割がそこで作られていると言われるエリアだ。

アヘンはまあ置いといて、そこで話されているワ語の話が面白かった。乾杯は「ア」でいいらしい。「私たち二人」という人称代名詞だという。ワ人はお酒を飲むとき、竹の杯一つしか使わないらしい。二人で持って、「ア」と言って交互に飲むのだと。かわいいな。飲み終わると次の二人一組が「ア」する。みたいな感じでどんどん「ア」していくらしい。おもろ。

著者が「ア」を迫られたエピソードも抜群に面白い。

 もっとも、私が参加すると、村の人たちが競って私と「ア」をしたがるので、毎回悩まされた。一気飲みの連続はこたえる。「もう飲めない」と断ろうとすると、「あいつ(他の人)とアができて、俺とはアができないのか」などと、世界中に存在するタチの悪い酒飲みと同じようなことを言う。「もうアはやめてほしい」と私は何度も思った。

「俺の酒が飲めないのか〜〜」は世界共通らしい。

 

著者は様々な言語を学んでいった初期の段階では「言語とはどうしてこんなに違うんだろう」と思ったそうだが、いまでは「人間の言語はどれもなんて似ているんだろう」と思うようになった、とエピローグに書いている。言語好きの間ではよく「極端に異なった言語はない」とか、「言語に貴賤なし」といったことが言われている。うんうんまったくそうだよな〜と思うけど、こういう色んな言語を体当たりで学んで冒険してきた著者が言うと響きが違う。こんな面白い本のエピローグに書かれると、そりゃ響く。「人間はみな同じ」って言葉も。