難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

本当だよ

「ま、いいや」で流すの、ストレス軽減のためにすごく大事だ。よくよく考えてみれば多くのことはどうでもいい。

もともとそういう身軽な人間だったはずなのだけど、いつの間にかたくさん荷物を背負っていた。全部持てますよなんてカッコつけちゃダメだ。重たすぎてイラついて、むしろカッコ悪いじゃないか。いらないものは置いて行こう。といった感じの最近。

 

伊藤雄馬『ムラブリ』読んだ。

以前読んだエヴェレット『ピダハン』に似ているが、あれにはかなり言語学的に込み入った話があったので、こちらの方が読みやすい。言語学あんまり馴染みないよっていう人でも楽しめそう。タイやラオスの山岳地帯に住む少数民族ムラブリの言葉を研究する言語学者の話。

 

ムラブリ語には「おはよう」「こんにちは」などの挨拶がない。その代わりに「ごはん食べた?」とか「どこ行くの?」と言ったりする。が、そもそもは言葉で挨拶することはなく、目が合うと顎をスッと上げる動作をするだけでいいらしい。

あえて言葉で挨拶する場合、「ごはん食べた?」や「どこ行くの?」と質問する。それには「えーと、とくにどこに行くとかはないけど、あえて言うなら散歩かな」と厳密に答える必要はない。内容は重要ではなく、適当なタイミングで「畑に行く」とか言えば違和感がない。

そんな感じでいいんだ、不思議。と思って読み進めると、そこから「言語は意味のある情報を交換するためにあるのではない」と展開されていた。

 

確かによく考えると日本語でも「おはよう」と言われて「いや、今日はけっこう遅めですよ」と返す必要はない。まったく意味のないやりとりだ。ならば、「おはよう」の交換は別に必要ないのでは?となってくる。

 では、なぜ意味のない「おはよう」を交換するのか? この理由を考えるには、言語は「意味」とは別の何かを伝えていると考える必要がある。では、あいさつは意味以外のなにを伝えているのか。それは「関係性」だ。

誰かとコミュニケーションをするとき、交換されているのは意味だけじゃない。私とその人との「関係性」も交換されている。

とても重要なのに、最近見落としていた気がする。情報量の多い充実した議論も楽しいが、新情報皆無などうでもいい会話もまた大事。それは「関係性」を交換するコミュニケーションだから。心に刻もう。

 

あと面白かったのが、バベル的言語観に対するコーラン的言語観の話。

「言語がバラバラだと困るよね」という話、よくバベルの塔の逸話を引いて語られる。これはおなじみだけど、違う聖典にもまた、神様が人間をバラバラにしたという話が書かれているらしい。それがコーランだ。

バラバラにしたのは同じだけど、理由が異なる。「君たちがお互いをよく理解するために民族をバラバラにした」というのである。深い。

 

これは萩原朔太郎『月に吠える』の序文を思い出す。

 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とを持つて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。

同じ言語をしゃべっていると、この違いを忘れてしまいがちだ。私と彼との「かなしみ」は全然別なのに。「よろこび」も異なるのに。語学はそのことに気づかせてくれる。私の「かなしみ」と彼の「sadness」はなんだか違う、というようなことを。

そんな小さな発見から学べるものは大きい。皆が皆、それぞれの感情を、感覚を、価値観を持っている。私たちって、全然違う。違うから理解したい。近づきたい。もっと仲良くなりたい。

 

 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。

 とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。

 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。

言葉ではわかり合えないことがある。思ったことを完全に表現するのは至難のわざだ。完全に表現できたとしても、完全に受け取られるかどうかはわからない。

朔太郎は言う。「詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である」と。

 

『ムラブリ』を読んで思った。「おはよう」や「どこ行くの?」みたいに意味を交換するわけではないコミュニケーションも、これと同じなんじゃないか。詩や音楽のような「言葉以上の言葉」なのではないか。

そこで交換される「関係性」の中でしか理解し合えない感情が、感覚があるんじゃないか。だからこそ、意味のないコミュニケーションがわれわれの仲をよりいっそう深めてくれるのではないか。なんて。

 

オモコロの人たちが意味のない「ぺいっちょ」とか「ハマチャン」とか言いまくってるの、「言葉以上の言葉」だったんだな。仲いいもんな。納得。