難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

スコーン祭り的なイベントに行ってきた。正直、一番の目的はトートバッグだったのだけど、五千円くらいしてて諦めた。六百円くらいかと思ってた。ユニオンジャック柄のかわいいトートバッグ。

スコーン自体は多分初めて食べた。いろんな種類あるので迷ったけど、いきなり変わり種もアレかなと思ってプレーンを食べた。案外しっとりしていた。これ、ロンドン風のスコーンで、田舎風とは異なるらしい。田舎風のも食べたけど、こちらはけっこうボソボソしていた。一分でスコーン何個食べられるかのギネス記録に挑戦したら詰まって死ぬと思う。

 

秦正樹『陰謀論』読んだ。

世の中、よくわからんことが多すぎる。魔境ことツイッターを見てみると、明らかに性転換アプリ使って女の子のフリしたおっさんがグルメ情報を発信している謎のアカウントがあったりする。それに「かわいいね」とリプをつけているアカウントも大勢見られる。修正が雑すぎるので上着のジッパーと皮膚が一体化したりしてるのに、おかしいとは思わないのか。いや、あれは「そんなこと皆解って楽しんでんだよ」案件なのか。そういうノリだとしても、よくわからん。おっさんだとわかりきった作り物の女の子がランチしてる投稿に日々リプを飛ばさないと救われない何かを彼らは背負っているのか。

そのアカウントには「ちゃんと修正してくれ!バレバレだから!」ってツッコみたくなるし、毎日リプを送っている人には「マジなのか?まさか本当に気づいてないの?大丈夫?」と聞きたくなる。実際にこういうツッコミを入れているアンチ(?)も存在する。これはこれで余計な気がする。関わらなくていい世界にわざわざ踏み込むことはないのだ。

気になるのは気になるけどね。わからんすぎるから。なにが目的なんだ。実はこれ、わざとツッコみたくなる要素を詰め込みまくって衆目を集めるように作られた巧妙なグルメ情報発信アカウントなのではあるまいか。私はまんまと乗せられているのではないだろうか。

 

わからないことには理由が欲しくなる。そんな誰にでもあるようなきっかけから、人は陰謀論に飛び込んでいくんじゃないだろうか。向こうから近寄ってくるのではなく、こちらから飛び込むのだ。「これってこうなのでは…」と密かに考えていた論を補強してくれる存在なのだから。

 

「なぜ」陰謀論を信じるかという問いと、「誰が」陰謀論を信じるかという問いは、質的に見てもやや異なる話題ではある。しかし、そうした問いへの答えは、両軸で行う分析の中から見出すしかない。本書の分析結果を敷衍すると、ネット右翼やオンライン排外主義者に近い意見を持つ「普通」意識を持つ人、リベラル左派が多くを占める野党支持者、あるいは、政治に関心が高かったり知識が高かったりする人も、みな、「自分の信念に沿う」陰謀論を信じる傾向にある。こうした分析の結果から導かれる答えを整理するならば、「誰が」に対応する答えは「誰もが」ということになるだろうし、「なぜ」に対応する答えは「自分のモノの見方を支えてくれているから」ということになるだろう。

あらゆる人がいつ陰謀論に引っかかってもおかしくない。人には人の陰謀論

人間には「なぜ」を追求したいという欲求がある。これは止められるものではない。陰謀論は、そんな人間の好奇心を餌に成長していく。この生き物が完全に消滅することはないだろう。ただ、巨大なバケモノにしてしまわぬよう餌を抑える術はある。「自分の中の正しさを過剰に求めすぎない」という姿勢である。何事もほどほどに。

 

日本人の「心の中」で陰謀論がどのように受容されているのかという難問を解明するために、丁寧な実験・調査の観察がなされている本文もさることながら、あとがきがめちゃくちゃ良かった。著者のカミングアウトがアツい。

 筆者が陰謀論に関する研究をはじめたのは、2016年ごろからである。院生時代から、博士号を取得したあとは日本の陰謀論を研究テーマにしたいと決めていた。というのも、筆者は学部生時代に、いわゆる「ネトウヨ」だったからである。政治学を学び始めた動機も、「外国に支配された日本を救いたい」という「愛国心」に突き動かされてのものであったし、少なくとも当時の筆者はそれを「普通」と考えていた。まさに本書でも言及したように、「ただ日本を愛するだけの普通の日本人」なのになぜ「ネトウヨ」などと揶揄されるのだ、と強い反感を覚えることもあった。もちろん、大学院に進学し、実証政治学を学ぶ過程で、そうした大きく偏った政治的考えは完全に霧消し、当時の「崇高」な信念は、単なる「黒歴史」に変わってしまったわけだが……。

もともとはそういう政治思想を持っていた著者だからこそ真に迫ってできた研究であり、書けた本だった。いい話だな。

そしてそんな異色のモチベーションでやってきた著者のどんな突飛なアイデアも、どうすればおもしろい「研究」にできるか親身になって考え育ててくれた指導教員の話。著者がポスドクになれず無職になったとき「間違いなく成功する研究者だ、諦めるな」と励ましてくれた先生の話も良かった。こういうあとがきを読むと、こうして本書を読めているのが感慨深い。

 

偏った思想や過剰な正義感は、人とのふれあいや豊かな学びによって霧消するものなのかもしれない。

ハイプレ

先週末の日曜はライブだった。あんまり上手くはできなかった。無念。

PAさんが調節してくれてるから当たり前なんだけど、スタジオでの練習より音が綺麗に聴こえるので、ミスが目立って恐ろしい。細かいミスが山ほどあった。派手なミスも数回あった。無念無念無念。

でも全然ついていけてない感じではなかったと思う。日々の練習のおかげでボロボロにならずに済んだ。毎日コツコツやってると、確実に身につくものはある。そのおかげで救われることもある。

 

ライブの合間に初めてDJをやった。DJといっても、CDを入れて流して、隣の機器にもCDを入れておいて、よきところで切り替えるくらいしかしてない。でも楽しかった。好きな曲を大音量で流せるのは楽しい。

Angel Witch - Angel Witch

Gun - Race with the Devil

Baker Gurvitz Army - Help Me

Budgie - Breadfan

Black Sabbath - Wicked World

このあたりを流した。いま思うと全部イギリスのバンドだ。

もっとCD持って行けばよかったな。あんまり「ガチじゃん」って感じになっちゃうとアレかなとか思って手提げに数枚しか入れて行かなかったんだけど、こういうのはガチになって楽しんだほうがよい。

 

昨日はわが県でも珍しく雪が降った。今日も寒い。今年の冬は余裕だな〜〜と思っていたけど、突然牙を剥いてきた。体調なかなか悪い気味なので、これ以上崩さぬよう気をつけてまいる。

無添

週末にライブがあるので今週はスタジオ練習多めだった。疲れるけど楽しい。

曲もしっかり覚えて弾き慣れてくると、少し余裕が出てきて、細かいところまで「ここもっとこうした方がいいな」と気がつくようになった。良くもあるし悪くもある。細かいところまで考えすぎて、全体として演奏が合わなくなったり。難しい。考えたり考えなかったりしながら演っていきましょう。

 

pha『しないことリスト』読んだ。

世の中の「しなきゃいけないこと」の大半って、しなくてもいいことだったりする。ショッピングとかけっこうそうなんだよな。どうしても絶対に欲しいものってそんなにない。次の日になると「要らんかもな」となる。

寝る前にぼんやりAmazon見るのは危険だ。すぐにポチッと買えてしまう。ほしいものリストに入れておいて一旦満足して寝ると、朝起きたときには「要らんかも」になっていがちなので、すぐにポチらない方がいい。ほしいものリスト、増え続けていて一向に減らない。いいなとは思うけどなくても困らないものリストになっている。

 

今年の流行のファッションはこれ!とか、この機器がないと時代に乗り遅れる!みたいな売り文句が嫌いすぎる。だからどうしたのって感じだ。なんかこう、買わなきゃヤバいみたいに半ば強制されてるのが嫌すぎ。それが好きだったり必要なのであれば買えばいい。

 

あと、やっぱり面倒な頼まれごとみたいなのもできるだけやりたくない。そのために「自分を大きく見せない」というのが有用だ。

 他人には「こいつはダメな奴だし変な奴だ」と思われていたほうがラクだ。そのほうが「この人はこういうことをやってくれるはずだ」とか「この人に任せよう」みたいな期待を押し付けられずに済むからだ。他人から期待されないほうが自分の好きなように行動しやすい。

好きなように動けるのが一番いい。面倒なことがなくなると、それだけやりたいことや大事な人たちのために時間と体力を使える。ゆっくり休んだりもできる。「なんでもできる人だ」と皆から頼られるのも誇らしいかもしれないが、私には荷が重い。

 

でもこれ、かなり自信が必要なことだなとも思う。「ダメなやつだなあ」と周りに思われていても意に介さないのは、めちゃめちゃ強い。私は弱い人間なので、寄りかかれるなにかが欲しい。著者みたいに京大卒とかの紋所があればいいんだけど、私にはなにもない。なので積極的に知識を取り入れ、披露するようにしている。せめて「なんか色々知っているやつ」くらいになっておきたい。そうすればただのダメすぎ無能人間みたいな評価は下されないですむんじゃなかろうか。そうだったらいいな。

 

それと、澁澤龍彦が『快楽主義の哲学』で書いていた「韜晦」の技法を大いに参考にしている。

 むしろ、すすんで相手に誤解の材料をいっぱい提供してやり、自分のまわりに誤解の煙幕をもうもうと張りめぐらして、その煙幕のなかに、自分の真実の姿をかくしてしまったほうが、はるかに気がきいているではありませんか。こういうやり方を「韜晦」(ミスティフィカシヨン)といいます。(中略)

 正体のわからない人物というのは、魅力的なものです。世間なんて甘いもので、いつも黒めがねをかけている正体不明の人物には、なんとなく複雑な陰翳がありそうな気がして、つい敬意を表してしまうのです。

あまり自身のことは話さず、学問・文化・芸術などの話題を広げていく。「なんかよくわからんけどすごそうなやつだ」と思わせたら勝ち。そこからは勝手に良く評価し続けてくれて、ぞんざいにも扱われない。いい感じで楽な付き合いができる。

 

うまく楽して生きていきたいものです。いいとこだけ取りたい。大トロ人生。いやでも大トロはいっぱい食べると気持ち悪くなっちゃうから、中トロがいいな。バランス良いし。中トロ人生で。

違いのわかる

時間つぶしに入ってみた店が面白かった。生ビールの注ぎ分けが楽しめる店。前々から「あるなあ〜〜」とは思っていたけど、ちょっと入りにくい雰囲気だった。こういう機会があるとちょっとした冒険ができるので良い。

1杯目に最適というシャープ注ぎ、これぞビールって感じでスイスイ飲めちゃう。注ぎにこだわりありという前提知識もあってか、格別に思える。お店の近くに温泉があるので、湯上がりにここでシャープ注ぎをグイッといくの最高かもしれない。

続いて違いがわかりやすそうなマイルド注ぎ。これが全然違う。あんまりわからなかったらどうしようとか思って内心ドキドキしていたのだけど、いらぬ心配だった。心地よい苦味。じんわり長い余韻。同じビールでも注ぎ方でこれだけ変わるんだな。他にも数種試したけど、味音痴の私でもハッキリわかるくらいに違う。新しい世界を見た。

 

時吉秀弥『英語脳スイッチ!』読んだ。

認知言語学の知見から文法を学べる本。

日本語脳と英語脳ではものの見方がかなり違う。英語は他動詞優位の言語なので、「原因」を主語にする文が多くなる。

 例えば日本語で「台風のせいで電車が遅れた」と言えば、主語、つまり主役の情報は「電車」です。電車が遅れた原因である「台風のせいで」は文法的には修飾語である副詞です。

 しかし、英語では(つまり「英語脳」の発想では)、

 The typhoon delayed trains for an hour.

 (その台風が電車を1時間遅らせた。)

という言い方が普通で、原因である the typhoon が主語、つまり情報の主役になります。

 

ひとりでにそうなった(「カップが割れた」など)という自動詞の文にはなりにくく、原因(「誰々がカップを割った」など)をハッキリさせる。と言われるとかなり責任追及型の言語に思えて怖いが、意外とこの「原因」のおかげで気を遣った丁寧な言い方になったりもする。

例えば Why do you think that? と What makes you think that? では、どちらが丁寧、あるいは喧嘩腰に聞こえないか。これ、前者は「なんであなたはそう思うの?」で、後者は「なにがあなたにそう思わせるの?」という感じになる。

why で「なんで?」と訊いてしまうと、「意思・意図」まで踏み込んでしまい少々立ち入り過ぎになってしまう。その点、What makes you think that? は、何かしらの原因があなたにそう思わせた、それは何なのですか?を尋ねる表現なので、かなり気を遣っている。

 

「日本語は敬語表現が多彩で、ズケズケと物を言う英語よりも丁寧で繊細な言語」みたいな言説を見聞きすることがある。しかし、英語は英語で「ここまで踏み込まないほうがいいな…」という微妙な距離のとりかたで気を遣いまくっている。丁寧で繊細な言語だなあ〜〜と思った。

しかも更に「命令や依頼に please をつけると丁寧になるか上から目線になるか」というのが、イギリス人とアメリカ人とで違ったりするらしい。頼み事をするのだから「お手数ですが・悪いけど」とつけないと気持ち悪いよな、と考える英国人と、われわれ身分の上下なく平等なのだから「悪いけどやってね」という断る選択肢をなくすような露骨な表現を避けるアメリカ人、という感覚の違い。発音や綴りが違うのは知っていたけど、そういう感覚の違いって考えたことなかったな。

 

英語話者の「世界の捉え方」や「文化的背景」を理解したとき、英文法が腑に落ちる。楽しい英語学習本だった。

同著者の『英文法の鬼100則』も気になる。「鬼」ってちょっと怖いけど。

ZA2

飲みゲー的なやつ、ずっと拒否してきたけど、このあいだ久しぶりにショットを一気飲みさせられた。蛮行中の蛮行だよなあ。何も楽しくない。

「これ度数めちゃキツいからさ~」って、だからなんなんだ。そんなんでキャッキャしてるあんたのがキツいわ。やっぱりこういう飲み方する人たちとは融和できない。

 

飲み方。これの合う合わないって大事な要素だと思う。毎年この時期にわが県まではるばる遊びに来てくれる友人とは、飲み方が合う。美味しく飲んで食べて、最近考えていることや読んだ本、聴いている音楽、見た映画などの話を延々とやる。

もともと民俗学とかそういうのが好きな人だったが、最近は文化人類学に興味が出てきたのだそうだ。この分野は私もかなり関心が出てきた。『ピダハン』や『ムラブリ』の影響が大きい。言語とは?を考える上で重要な分野だ。

 

昔は欲しいと思う本があればいくらでも買っていたけど、最近は買う本を厳選している、という話もした。さすがに積読が増えすぎていて、あと半世紀生きるとしても読み切れない量になってきている。ただでさえ読むの遅いし。

あまりに難解な本とか古典は無理に挑戦しなくてもいいかな。結局読まながちだし、読んでもさっぱりわからんことが多い。意地になって通読しても何一つ覚えていない。そんならわかりやすく解説してくれてる入門書でいいや、と思うようになってきた。これは絶対読みたい!ってやつは頑張って読むけれども。というかそういう「絶対に読みたくて挑戦する本」に体力や時間を注ぐためにも厳選が必要と思った。人生で読める本は限られている。

 

そんな骨太な読書とは別で、娯楽の読書は相変わらずなんでも読んでいきたい。これ超好き!!っていう爆発力は衰えていっているように感じるけど、これ好きだな〜〜ってのは増え続けているので、浅くともあれこれ取り入れていきやしょう。

マンデラ

新年早々、物騒な話が続いている。ベイルートでの爆撃暗殺事件、スレイマン追悼式での爆発事件。イスラエルハマスの戦争は周辺国・組織を巻き込んでまだまだ激化しそうだ。

こうした争いが起こるたびパレスチナや中東の問題について読んでいるはずなのに、すぐに忘れてしまう。遠い地域での縁のない出来事と心のどこかで思っているからだろうか。同じ地球の、同じ人間の話なのに。

 

山井教雄『まんが パレスチナ問題』読んだ。

復習のつもりで本書を手に取った。パレスチナ人のアリとユダヤ人のニッシム、それとなかなかキレ味鋭いコメントをところどころで挟むノラネコが、旧約聖書からアラファトの死まで易しく語ってくれる。

 

人種・民族について考えさせられた。

パレスチナで生まれたイエス・キリストパレスチナ人。パレスチナで生まれ育った人、住んでいる人は、イスラム教徒でもキリスト教徒でもユダヤ教徒でも皆「パレスチナ人」だ。しかし母親のマリアがユダヤ人なのでユダヤ人でもある。「ユダヤ人」というのは宗教から見た見方だ。

パレスチナ人でありユダヤ人でもある」という人たちが居ることすら、あまり馴染みがないのではないだろうか。それくらい私たちは人種・民族問題について疎い。

 

ドレフュス事件*1もあまり人口に膾炙していないイメージがある。フランス史の本には必ずといっていいほど取り上げられる重大事件であり、エミール・ゾラが「糾弾」したことで有名だ。

柴田三千雄フランス史10講』でもこの事件は「第三共和制、さらには近代フランスの社会と政治にとって、大きな転換点となった」と紹介されている。国家と宗教を完全に分離する「政教分離法」制定につながっていく転換点である。

 

そんな重大事件なのだけど、ユダヤ人にとっての「ドレフュス事件」を考えたことがなかった。革命により信仰の自由や平等の市民権が認められ「ユダヤ系フランス国民」として落ち着いたはずなのに、そんなものは幻想だった。軍人として命がけで国を守っても、差別を受ける。平穏に暮らすことすらままならない。

どこへ行こうとどんな時代になろうと、少数民族は差別され、迫害される。そんな現実を突きつけられたユダヤ人は、自分たちの国を、ユダヤの国を造るという理想へと進んでいく。ユダヤ人にとってもドレフュス事件は大きな転換点だったんだ。

 

まんがだと侮るなかれ、大いに気づきがあった。続編も出ていて、ハマスらの台頭に関してはそちらが詳しいみたいなので探してみる。

*1:1894年、フランス軍ユダヤ系大尉ドレフュスが軍の反ユダヤ主義者たちのでっちあげによりスパイ容疑で有罪となった事件。2019年、ロマン・ポランスキー監督により映画化されている。

西

年末年始、食べすぎて苦しい。大晦日にカウントダウン飲み会に誘われたくらいで、あとはほとんど家でゴロゴロなのでめっちゃ太ったと思う。走らないと。

お肉をもらったので新年早々焼肉したり、夜中ずーっと桃鉄したり、朝起きて『VIVANT』の再放送見たり、ぐうたらな正月過ごさせてもうてます。

 

昨年は「英語をやりなおす」を目標とした。入試用の単語帳や文法解説書、基礎的な部分の復習をほぼほぼ毎日続けられた。怠け者で基礎学習嫌いな私にしてはいい感じなんじゃなかろうか。

今年はもう少し進んで、ピンカーやドイッチャーあたり読めたらと思っている。本当は英語を専攻していた学生時代に頑張らなきゃいけないことだったんだけど、当時はフランス語に熱中していたから。まあでもフランス語やラテン言語の知識は存分に活かせるし良しとする。私の人生はいつも遠回りだ。